「令和元年は、復興元年」。 北海道胆振東部地震厚真町追悼式
2019年10月17日
北海道胆振東部地震発災から1年が過ぎた2019年9月7日、厚真町総合福祉センターで追悼式が執り行われました。犠牲となられた37名の方のご遺族をはじめ、町内外からおよそ600人が参列し、犠牲者を悼みました。
悲しい町では終わらせない
北海道胆振東部地震発災後、避難所に指定され、一時は600人を超える町民が身を寄せた総合福祉センター。
あれから1年。広く大きな大集会室のステージ中央に、真っ白なキクやユリに覆われた荘厳な祭壇が設けられました。
祭壇向かって左に遺族席、右に来賓席。会場後ろには一般席が用意されました。
追悼式が始まる頃にはすべてのイスが埋まり、立ったまま式典を見守る参列者の姿もありました。
午前10時30分。厳かな雰囲気の中で追悼式が始まりました。
最初に、震災支援を行った以下の団体へ宮坂尚市朗厚真町長より感謝状が贈られました。
・陸上自衛隊第7師団
・航空自衛隊北部航空方面隊
・北海道警察
・胆振東部消防組合消防署
・胆振東部消防組合厚真消防団
続いて近藤泰行副町長による開式のことばがあり、全員で黙とうを捧げました。
式辞は宮坂町長が務めました。町長はその中で「自らの人生を振り返るいとまもなく、残す家族に託す思いも伝えることができないまま」亡くなられた犠牲者に思いを馳せ、「悲しい町では終わらせない私たちの決意、私たちが再び立ち上がり、犠牲になられた方々が愛したこの町を再び輝かせるために、私たちが力を合わせることこそ、悲しみの淵に立つ私たち自身が求めている答えだ」と力強く語りました。
手を取り合って、一歩ずつ前へ
追悼式には北海道知事の鈴木直道氏をはじめ、国や道から多くの議員が来賓として訪れました。代表して、鈴木知事、衆議院議員・山岡達丸氏、参議院議員・橋本聖子氏、厚真町議会・渡部孝樹議長の4氏が追悼の辞を述べました。
「多くの尊い命を奪い、道民に大きな悲しみと未曾有の被害をもたらした胆振東部地震の発生から1年が経過しました。本日、厚真町を訪れ、被災前の日常を徐々に取り戻しつつある町の姿を拝見し、住民のみなさまの自らの力で立ち上がろうとする精神と、ご努力、さらには国内外の多くのみなさまからのあたたかいご支援により、幾多の困難を乗り越え、復旧・復興に向けた取り組みが着実に進められておりますことを改めて実感をいたしました。
一方で今もなお、仮設住宅で生活を送られている方が数多くおられるなど、復興はその途上にあります。
道では、被災された方々が一日も早く安心して暮らせるよう、被災地域の不安や課題を一つひとつ丁寧に受け止めながら、引き続き、目に見えるかたちで復興に向けた取り組みを進めてまいります」(北海道知事・鈴木直道氏)
「復興とは単に建物や土地を回復すればよいのではなく、そこに暮らしているすべての人々の不安が消える日。すなわち、心の復興こそが最も大切です。
令和の年を迎え、町民のみなさま、そして町を応援するみなさま、それぞれが手を取り合って、一歩一歩前に進み始めています。令和元年は胆振の復興元年にする。その決意をここで新たにさせていただき、追悼の辞とさせていただきます」(衆議院議員・山岡達丸氏)。
「震災の発生以来、被災されたみなさまは互いに励まし合いながら、失われた日常を取り戻すためにさまざまな苦難を乗り越えて復旧復興に尽力してこられました。
農業用水路等の復旧により、主要産業の農業は96%の水田が営農を再開し、今年中に全農家が再開できるよう土砂の撤去などを進めていると聞いております。
被災した林地・林道等は約7割の箇所で復旧工事に着手しているものの、完了した所はないため、山深い山間部は復旧工事が進んでいないように見えるとの声を聞きました。
依然として残る課題に真摯に向き合い、今後も被災された方々の思いに寄り添いながら、復旧再生に向けた取り組みに全力を傾けていく所存でございます」。(参議院議員・橋本聖子氏)
「犠牲となられたみなさまお一人おひとりに、家族があり、夢と希望がありました。幸せでなごやかな暮らしがありました。どんなに月日が流れ、時間が経過したとしても、最愛のご家族を突然失ったご遺族の深い悲しみと喪失感は癒えることはありません。
厚真町議会といたしましても、復旧・復興を可能な限り早期に成し遂げるため、生活の再建と生業の再生、復旧・復興を実現できるよう一丸となって全力で取り組んで参ります」。(厚真町議会議長・渡部孝樹氏)
日常が戻ることを願いながら
ご遺族を代表してあいさつを行ったのは早坂信一さん。地震による土砂崩れで、ご両親を亡くされました。
早坂さんは「『おれ、何か悪いことしたかな?』」と発災直後に惨状を目にした当時の心境を振り返り、「この世に神様仏様がいるとは、到底思えませんでした」と癒えることのない悔しさを噛みしめました。
「突然に家族や友人を失った事実を、そう簡単には受け入れられるものではありません」。早坂さんの言葉が参列者の胸を打ちます。
「ただ、僕の勝手な想像ですが、亡くなられた人たちは、僕ら残された家族がいつまでも泣いているのは見たくないのではないかと思っています。なので、できるだけ、無理をしてでも、笑おうとしています。みんな、ぼくらの幸せを願っていると思うので。
まだまだこれからもいろいろな方々にお世話になります。工事の方々が事故に遭わないように、同じような災害で、同じように悲しい思いをする人がいないように祈るとともに、一日も早い復旧と、普通の日常が戻ることを願いながら、簡単ではありますが、お礼の言葉とさせていただきます」。
早坂さんによるあいさつのあと、ご遺族から順に献花を行いました。
ハンカチで目元を押さえる人、静かに手を合わせる人。お母さんに手を引かれながら花を手向ける小さなお子さんの姿もありました。
来賓、一般参列者に続き、最後に宮坂尚市朗町長が献花を行い、追悼式は閉会しました。
式典を終え、報道陣への取材の中で宮坂町長は次のように語りました。
「これからも国・道との連携を密にして、被災者のみなさんの生活再建、自宅の再建、恒久的住宅の確保について、より加速をしてまいりたい。そのためにも、遺族の方々と丁寧な協議を重ねていかなければならないと考えています。
さまざまな専門家と協働して、一人ひとりのケースに応じた積極的な提案をさせていただき、災害救助法で定められた2年間のうちには、確実に、いま自宅をお持ちでない方々の恒久的な住宅の確保を行うことを、しっかりとここで約束させていただきたいと思います」。
最後に、宮坂町長による式辞と早坂さんの遺族代表あいさつの全文を掲載いたします。
令和元年北海道胆振東部地震厚真町追悼式 式辞
本日ここに、ご遺族並びにご来賓、震災尽力者のご臨席のもと、令和元年北海道厚真町追悼式を挙行するにあたり、北海道胆振東部地震で犠牲となられた御霊に対して、町民を代表して謹んで哀悼の言葉を申し上げます。
本町に甚大な被害をもたらした北海道胆振東部地震から1年が過ぎましたが、その震災により犠牲となられたみなさんは、厚真町にとってかけがえのない方々ばかりでした。平成30年9月6日午前3時7分、自らの人生を振り返るいとまもなく、残す家族に託す思いも伝えることができないまま時が止まりました。その不条理な痛恨事にさぞかし無念であったろうと思うと、尽きることのない悲しみが胸にこみあげてまいります。ましてや最愛のご家族やご親戚、ご友人を失われた方々の決して癒えることのない悲しみの深さは、察するに余りあり、ここに改めて、犠牲になられた37名とご遺族のみなさまに衷心より哀悼の誠を捧げます。
本町を中心にマグニチュード6.7、震度7を記録した大地震により北海道全域が被災地となり、胆振東部3町以外でも札幌市など多くの地域で甚大な被害が発生しました。社会資本や個人資産への被害が広範囲にわたりましたが、震源地である胆振東部3町においては、4,300ヘクタールにも及ぶ山腹崩壊が伴いました。特に本町では北部山間地を中心として3,200ヘクタールにも達する地滑りが発生しましたが、そこには自然と共存してきた人々の暮らしがありました。37人の犠牲者が暮らした幌内、富里、高丘、吉野、桜丘、朝日、幌里は、一様に開拓以来、鬱蒼とした原始の森を切り開きながら、幾多の困難を協働の力で乗り越えてきた地域であります。清流と豊かな森、穏やかな時間の中に抱かれて人々の暮らしと命のリレーがありました。
9月6日未明、私たちの想像を超えた大規模な地震動により、多くの犠牲者とともに住宅被害は全壊、大規模半壊、半壊を合わせて560棟を数え、インフラや生産基盤への被害が全町に広がるなど、悲しい出来事があった町として全国から注目されることになりました。私たちに多くの惠(めぐみ)をもたらす豊かな自然は、時として無慈悲なまでに猛威を振るいます。私たちは、そんな大自然の脅威に抗う術を持ちませんが、それでも助け合い、地道な努力を繰り返し積み重ねることで、今日の繁栄を成し遂げてまいりました。「家、家にあらず。継ぐをもって家となす」。世阿弥の言葉と伝えられていますが、紡いだ地域の歴史と伝統、そして受け継がれた家族の願いと希望が重なります。一人ひとりの力は小さくとも、みんなの知恵と力を合わせて、さまざまな困難を乗り越えてきました。終わりからまた始める、躓いては立ち上がる、失っては作り始める、幸せも悲しみも分かち合ってきた人々の歴史がそこにあります。
昨年の慰霊式の際に、遺族代表から「犠牲の大きさや悲しみにとらわれて、私たちが立ち止まることを望まない」とのごあいさつがあり、参列者の心を揺さぶりました。悲しみの中にあって先人の足跡に思いを馳せ、その生きざまを自らの道標とするために時間は必要ですが、今こそ私たちは先人の努力を受け継いで、その先の道へ進む決意を新たにしなければなりません。悲しい町では終わらせない私たちの決意、私たちが再び立ち上がり、犠牲になられた方々が愛したこの町を再び輝かせるために、私たちが力を合わせることこそ、悲しみの淵に立つ私たち自身が求めている答えだと考えています。
ここで、改めて発災直後から96時間にわたり、不眠不休の捜索活動を実施していただいた、警察、消防、自衛隊のみなさまには、当地での困難を極めた救助活動を展開していただき、心から感謝を申しあげます。また、迅速な捜索活動を支援するため啓開作業や後方支援を担っていただいた国、北海道、そして全国の関係機関のみなさまにも、たいへんなご尽力に厚真町民を代表して厚くお礼を申しあげます。
発災から時が経過する中で、国の直轄砂防応急工事はほぼ完了し、北海道の治山・砂防工事、農地や宅地堆積土砂の除去、災害廃棄物の処理、統合浄水場その他公共土木施設等の災害復旧工事も関係者のご理解とご協力、そして関係機関のご尽力により順調に進捗しています。一方で、まだ多くの方が仮設住宅や被災住宅等でご不便な生活を余儀なくされており、恒久的住宅対策として住宅再建支援策など関係者との意見交換を丁寧に進めながらも、住宅地の確保や災害公営住宅、高齢者福祉施設等の建設計画など災害救助法の適用期限を見据えた取り組みを加速していかなければなりません。また、被災山間地の再生や地滑りがあった宅地の耐震化、防災拠点施設整備、森林再生・山地復旧と、生業や生活空間の復興など、技術的課題や財源確保など、まだまだ多くの困難が予想されますが、町民のみなさまと共有する厚真町復旧復興計画を策定し、実行に移しながら、令和の時代とともに着実に厚真町の復旧復興の歴史を綴ってまいります。
昨年の11月15日には当時の天皇(現上皇さま)、皇后両陛下(現上皇后さま)が本町に行幸啓され、私たちに勇気を与えてくださいました。全道全国各地から駆けつけていただいたエキスパートやボランティアのみなさまに支えられ、さらには、多くの国民のみなさまから物心両面でご支援をいただきました。私たちは、かけがえのないものをたくさん失いましたが、厚真町を応援してくれる多くの方との新たな出会いがあり、新たな“絆”が生まれています。全国から寄せられた温かい真心に応え、遠く厳しい道のりではありますが、先人や震災で犠牲になられた方々から託された郷土厚真町の輝きを取り戻すため、町民のみなさまと一丸となって立ち上がり、よりいっそうの努力を重ねてまいりますことを、ここにお誓い申しあげます。
結びに、犠牲となられた37名の御霊が永遠に安らかでありますようお祈り申しあげますとともに、ご遺族のみなさまのご平安とご健勝を心から祈念し、式辞といたします。
令和元年9月7日
厚真町長 宮坂尚市朗
令和元年北海道胆振東部地震厚真町追悼式 遺族代表あいさつ
遺族を代表し、ごあいさつ申しあげます。
昨年の地震で被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申しあげます。
また、不幸にして亡くなられた方々とそのご家族、ご親族にお悔やみ申しあげます。
被災し行方不明になった人たちの救助活動のために、町内、道内、そして全国から大勢の方々のご尽力をいただきました。
そのすべての方々に感謝申しあげますとともに、その勇気ある行動に敬意を表します。
国内外の多くの方々からの温かいお心のこもった義援金、支援物資、励ましのお手紙やメッセージをいただきました。
また、多くの行政の職員やボランティアの方々に、たくさんのご支援やお手伝いをいただきました。本当にありがとうございました。
昨年11月には上皇陛下、上皇后陛下にお見舞いいただきました。
直接やさしい励ましのお言葉をかけていただき、そのお心遣いにあらためて感謝申しあげます。
発災直後、現場に行った時にあまりの惨状に「おれ、何か悪いことしたかな?」と思いました。「いや、こんなひどい目に遭うような悪いことはしてないぞ」。「みんな、普通に生きていただけじゃないか」。「なんでここなんだよ?」
その時は、この世に神様仏様がいるとは、到底思えませんでした。
あれから1年が経ちました。
この世にいるやさしい多くの方々に、本当に本当に助けていただいています。
救助の方々、支援の方々、工事関係の方々、ボランティアの方々、隣近所の方々のおかげで、今の自分がいます。
本当にありがとうございます。
地震の起こる前、母が認知症の状態だったので、1年半ほど、ごはんとかは僕が作っていました。
発災からしばらく経ったある日、久しぶりにスーパーに買物に行ったんですが、手に取るもの手に取るもの「ああ、これはもう買わなくていいんだ」と思うと、急に悲しくなって、一人で涙目になりながら買物をしました。
突然に家族や友人を失った事実を、そう簡単には受け入れられるものではありません。
ただ、僕の勝手な想像ですが、亡くなられた人たちは、僕ら残された家族がいつまでも泣いているのは見たくないのではないかと思っています。なので、できるだけ、無理をしてでも、笑おうとしています。みんな、ぼくらの幸せを願っていると思うので。
まだまだこれからもいろいろな方々にお世話になります。工事の方々が事故に遭わないように、同じような災害で、同じように悲しい思いをする人がいないように祈るとともに、一日も早い復旧と、普通の日常が戻ることを願いながら、簡単ではありますが、お礼の言葉とさせていただきます。
令和元年9月7日
遺族代表 早坂信一