クマゲラの鳴く里に移り住んで35年。穏やかな厚真での暮らしの中から生まれる木工アート
2017年3月23日
植物のタネや鳥をモチーフにした壁掛け、動物たちが楽しそうに跳ね回る照明器具…。さまざまな色合いの木を組み合わせてつくられる外山さんの木工アートは、そこにあるだけで空間をちょっとやさしく変えてくれるようです。20代で東京を飛び出して家具職人となり、旭川、札幌を経て厚真町へ。「ここはね。なんにもないけど、豊かな場所ですよ」とにこやかに語る外山さんに、移住までのストーリーと厚真ライフについてお話を聞きました。
気づかれない作品をつくりたい。
– おじゃましたのは豊かな森の中に佇む「momo cafe」。外山雄一さんのお嬢さんであるみらいさんが営むカフェです。太陽の日差しがあふれるこぢんまりとした店内には、かわいらしい雑貨とともに外山さんが手がけた木工アートや家具が並び、おとぎばなしのような世界観の演出に一役買っています。まずはそんな外山さんの作品づくりについて伺いました。
外山:僕はもともと家具をつくる仕事から始めてね。20年ぐらい前から公共施設に設置するレリーフの依頼を受けるようになりました。ここに置いてある壁掛けや木の置物はその「模型」。実際には長さ5メートルぐらいの大きなレリーフなんだけれども、お施主さんとしては施工前にただ設計図を見せられてもまったくイメージがつきませんよね。だから手に取れるぐらいのスケールで模型をつくって見せるわけです。そうすると素材や色合い、立体感のイメージが湧きますよね。
こうしたレリーフの仕事は学校や保育施設が多いですね。ここ数年は老健(介護老人福祉施設)の仕事が増えてきています。それから病院の緩和ケア病棟。病院はどうしても無機質な検査機器が並びますが、そこに天然素材のアートがあることで少し気持ちがやわらぐのでしょう。刑務所に飾る壁掛けもつくったことがあります。床には母子像が描かれ、そこから飛び立つように僕のつくった鳥が壁に設置されているんです。火葬場にも僕の作品はあります。火葬場の場合は極力宗教色が出ないような抽象的なデザインのものが求められます。つくるものは設置する場所に合わせて実にさまざまです。
それらはたしかに僕の作品ではありますが、僕としては施設を利用する人が作品そのものに気がつかなくてもいいと思っています。常に目の中に飛び込んできてうっとうしい壁飾りよりは「あぁ、あったね」と言われて思い出すぐらいの方がいい。そうは言いながらもね。ときどき目立つようなものもつくっちゃうんだけど(笑)。
たとえばこれは老健に入れたレリーフですが、正面からはアクリル板一枚はさんで見えないところにフクロウをかたどったものが仕込んであります。すると、夜になって裏から明かりを点けたときに板が透けてフクロウの形が現れる。そういう遊びをね、つい仕込んでみたくなっちゃうんです。
– なんだかご自身がすごく楽しんでつくっていらっしゃるのが伝わります。
外山:そう。楽しまないとね。これは幼稚園に設置するための照明ですが、照明に付けたリスやキツネの飾りは取り外すことができるんです。だからたとえば12月にはサンタクロースの飾りに付け替えたり、子どもたちが描いた絵を飾ってもいいんです。
– なるほど。子どもたちの作品そのものが照明の一部になるんですね。
東京から北海道へ。画廊勤めから家具職人に。
– 外山さんはもともと東京にいらっしゃったと聞いています。どのような経緯で厚真町に移り住むことになったのでしょうか。
外山:生まれは1952年。出身は静岡県静岡市です。高校まで静岡にいて、大学進学のために東京へ出ました。昔から絵を描くのが好きでね。大学に行きながら夜間の専門学校に通ったんです。長沢節さん(1917-1999/日本のファッション・イラストレーターの草分け的存在)の美術専門学校です。そこには2年間通い、デッサンやクロッキーを学びました。
教室にいるのは本当にユニークなやつらばかりでね。彼らと一緒にいると、だんだん普通に就職するのがバカらしくなっちゃったんです。だけどどんなに努力しても才能の塊のような彼らに勝つことはできないというのも同時に悟っていました。だからいつかは自分でやりたいという思いを抱きながら画廊に就職したんです。原宿の表参道に面した画廊で、おしゃれな絵を多く扱っていました。
アートに関わる仕事でしたが数年間勤めるうちに、やっぱり人の作品を売るよりは自分でつくって売りたいと思うようになりました。それで、すぐにできそうなのは陶芸か家具だなと思ったんです。失礼な話でしょ(笑)。そのときは26歳ぐらいだったかな。30歳までにはなんとか独立したいと思っていました。陶芸もやっぱり修業に時間がかかりそうだな、それじゃあ家具職人になろう。そう思い立って、東京の家を引き払い、家具のまちとして有名な旭川に引っ越しました。
旭川では建築設計事務所に勤めました。その会社は設計だけではなく、工房も持っていたので、設計も製作も両方勉強できると思ったんです。ところが仕事を始めたのはいいんですが、こたえたのは冬の寒さです。東京から来たばかりだから、そのギャップに耐えられなくてね。冬の朝、車のエンジンをかけようとしても寒すぎてかからないんです。
最初の年は我慢したんですが「あぁ、やっぱりここにはいられない」と、2年半で札幌に移り住みました。南区の石山に借家で5年ぐらい暮らしましたが、その間に娘と息子が生まれました。仕事は家具製作を請け負う傍ら、「鮭彫り」の工房に潜り込みました。エアーチッパーという電動工具を使って鮭を掘るんです。機械で粗削りをして、彫刻刀で仕上げる。手作業の技術はここで学びました。
ところがある日、借りていた家を持ち主の意向で急きょ引き払うことになってしまいました。これにはまいりましたね。住む場所もなくて途方に暮れて…、そんなとき救いの手をさしのべてくれたのが当時の厚真町長でした。移転して使っていない高校の校舎があるから工房として使ったらいい、と提案してくれたんです。住宅も探してあげるよ、と。どうやら知り合いの建築家を通じて僕らのことを聞いたらしいんですね。それでこちらに移ってきました。もう35年も前の話です。
– 東京、旭川、札幌……。それまでは比較的都会で暮らすことが多かったわけですが、厚真町へきてギャップを感じませんでしたか?
外山:わりと抵抗はなかったですね。妻も僕も。最初は農家の空き家を住居として貸してもらいました。敷地が1,800坪ぐらいあり、母屋のほかに納屋までありました。そうしたら妻が羊を飼いたいと言い出したんです。織物をやっていたからですね。いいね、おもしろいね。なんて言っていたら、札幌のある施設が羊を2頭譲ってくれました。
家族4人と羊2頭の生活が始まりました。ところが困ったものでね。ときどき2頭の羊たちはうちの敷地から出て、道ばたの草をモグモグやってるわけです。あわてておしりを蹴飛ばして、連れて帰るなんてことがしょっちゅうありました(笑)。
羊というのは放っておけば毛が伸びすぎてしまいます。毎年ゴールデンウイークになると羊の毛刈りをしました。面白いもんだから東京から友達を呼んでね。ジンギスカンを食べながら毛刈りショーをするんです。楽しかったね。
– 35年前ですから、まだまだ今ほど移住が注目されていなかった時代だと思います。ご近所づきあいなどでご苦労されることもあったのでは?と想像しますが……。
外山:うーん。どうだったかなぁ。こういう性格なんで受け流していたんじゃないかなぁ。
– 自分たちが「よそ者」とお感じになるような瞬間はありましたか?
外山:うん。それは今でもありますよ。どんなに時間がたっても、よそ者はよそ者です。だけど、ときには「よそ者の視点」というのも地域には必要なんじゃないかな。そういうのはいつまでも持ち続けていたいなぁと思いますよ。
– 東京に戻りたいと思う瞬間なども、あったんでしょうか。
外山:実は東京にいた頃は、北海道で数年間技術を磨いたら東京で工房を開くつもりでした。だけどね。今じゃ、たまに東京に行くけど「あぁ、ここじゃ暮らせないな」と思うもの。こっちで不便なことと言えば、東京と違って見たい展覧会がなかなか来ないことぐらいかな。本当にそれぐらいですよ。道外のクライアントとの仕事も多いですが、今の時代、インターネットで図面のやりとりができるから、直接会って打合せをしなくても仕事ができてしまいます。それは、こういう田舎で仕事をする人間にとってはありがたいよね。
やっぱりね。厚真は自然がいいですよ。四季を感じられるのがいい。あたりまえのことだけどさ。3月になるとウトナイ湖からハクチョウが飛んでくるんです。この近くの田んぼで落ち穂を拾って夕方に湖へ帰る。そのときにうちの真上を通るんです。ハクチョウの編隊が通り過ぎるときに、羽の音が聞こえるんですね。これが聞こえると「お、春だな」と思うんです。
ハクチョウだけじゃありません。キツネもタヌキもやってくる。ついこの間は庭でエゾシカがお昼寝をしていました。クマゲラもくる。エゾリスもくる。ここは本当に豊かな場所です。
あなたとともに時を刻むモノ語り。
– 今の世の中、大量生産の家具があふれています。外山さんがつくる家具とは、まず価格の面で大きな違いがあろうかと思いますが、そうした量産される家具を意識されることはありますか?
外山:特に意識はしていません。もちろん量産の家具がダメだなんて言うつもりはないし、実際うちの母屋でも使っています。何が違うのかと言ったら、僕の椅子も机も、一点ものだということですね。たとえば最近つくったこのエジソンライトという照明は、拾った木の根っこをベースに使っています。表面の皮を残し、木肌の感じがそのまま出るように加工して、中に電球を埋め込んでいます。そうすることでプリミティブな造形のライトになるでしょ。これこそまさに一点ものです。
– ふるさと納税のお礼の品である「天然木 子ども椅子」も一点ものですね。お子さんが生まれたときの体重を刻んでプレゼントしてあげる。いつまでも残る大切な記念品になります。
外山:これはですね。ふるさと納税のお話をいただいてからつくった新作なんです。脚の部分はセンという木、ほかはタモという野球のバットにも使う硬い木を使っています。どちらも北海道の木です。僕は広葉樹の質感が好きなんです。木目もいろいろあるでしょ。だから一つとして同じものにはなりません。座面の高さは21cmと一応は決めていますが、1cm下げてほしいといったオーダーにも対応します。プロポーションが崩れちゃうほどの極端な変更は難しいですけれど。
– 色合いも木そのものの色なのでしょうか。
外山:そうです。木の素材感がそのまま出るように、水性ウレタン塗装で仕上げています。この椅子ではないけれど、以前、あえて塗装せずに納品し、お客さまにサラダオイルで拭き上げてもらうというのを提案してみたことがあります。自分で手を掛けることでほかにはない愛着が湧きますよね。
木にはいろいろな色、硬さ、質感、木目がある。だからいろんな表情が生まれるんですね。そして天然木は時間がたつほどに色合いが変わってきます。家族と一緒に育っていくんです。それも、木の家具や木工アートが持つ楽しみの一つですよね。
取材の中で「厚真の豊かな環境に身を置くことで、作品にどんな影響があるとお考えですか?」と質問してみました。外山さんは何かをたしかめるようにしばらく窓の外を眺めてからこう言いました。「自分ではよく分かりません。ただ、のんびり向き合える。自分自身に対してね」。
外山さんの木工作品はそこにあるだけで空間をちょっとやさしく変えてくれます。それは天然木の質感のせいかもしれません。モチーフのかわいらしい曲線のせいかもしれません。でも一番は、つくり手が醸す、穏やかな空気のせいのような気がしてならないのです。
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文=長谷川圭介(KITE)
写真=吉川麻子