大正時代に撮影された一枚の写真から透けて見える、農業のまち厚真の「誇り」
2018年3月26日
厚真町の農業経営者育成プロジェクトに寄せられた寄附金は、担い手育成、最新技術の導入、新しい事業開発など、厚真農業の未来を見据えた取り組みに活用されます。厚真の農を100年先の未来につないでいくために、これまでの厚真の農業の歩みを知る。レポート第1回は、厚真町軽舞遺跡調査整理事務所、学芸員の乾哲也さん、奈良智法さんにお話を伺い、厚真町の発展を支えた農業の歴史を振り返ります。
喜びに沸いた開村三十周年
旧軽舞小学校の木造体育館にある軽舞遺跡調査整理事務所には、明治の開拓期から昭和にかけて実際に厚真町で使用された農機具や漁具、懐かしい生活用具が展示・保存されています。
その一角に一枚の不思議な写真があります。
「開村三十周年の祭」と走り書きされたモノクロームの写真には、白いクロスを敷いた台にカボチャやジャガイモ、トマトといった野菜が並べられ、傍らに3人の紳士が佇んでいます。
「なんてことない野菜を写した、なんてことのない写真ですよね。そこが不思議なんです」と学芸員の乾哲也さんは言います。
「品評会の様子を撮ったものかもしれません。開村三十周年ですから大正14年と考えられます。興味深いのは、写真一枚撮るのが相当貴重な時代になぜこのような写真を撮り、それが今まで大切に保存されてきたのかということです。
その背景を考えると、いかにこの品評会が当時の人びとにとって意義深かったのかが想像できます。故郷を離れて原野を切り拓き、寒さに耐え、冷害や洪水に絶望し、苦労を重ねてようやくここまで成し遂げたという、喜び、感謝、自信、誇り。それらすべての感情がこの一枚に詰まっているのでしょう」。
希望を胸に新天地を求めて厚真へ
厚真町に初めて和人が入植したのは明治3(1870)年。新潟県出身の青木与八氏は函館を経由して現在の浜厚真に移り住み、開拓を始めました。この地に暮らしていたアイヌの人びとと寝食を共にし、渡船業を営み、明治10年頃には旅館を始めます。
内陸部への入植は少し遅れて明治17年。山形県生まれの山本鉄太郎氏がトニカ(現在の富里)に入り、農地の開拓に勤しみました。開拓の傍ら明治26年には私塾を開設して地域の人びとに読み書きやそろばんを教えたという記録が残っています。
厚真町で初めて稲作が行われたのは明治25(1892)年です。野安部(ノヤスベ/現在の豊丘地区)に入植した小坂伊次郎と島井平市が種籾を持ち込み、稲作を試みました。その後も幌内、頗美宇(ハビウ/現在の高丘)など各地への入植が進みました。
「厚真に入った人びとの大多数は農地開拓が目的でした。家業を継げずに郷里を出た農家の次男・三男、住んでいたまちが自然災害で壊滅的な被害に遭い新天地を求めて団体移住を試みたケースもあります。多くは北陸、東北の方でした。そして興味深いことに直接厚真に入るパターンは稀で、道内のどこか他の地域を経由して最終的に厚真にたどり着いた人が多いんですね。例えば、後の厚真神社を建立した幅田家は明治27年に入植する前、富山県から一度滝川市の辺りに入っているんです。けれども石狩川の低地で思ったように田んぼが作れず、新たな移住先として厚真を選びました。当時、厚真は田んぼを作るのに良い場所だという噂が広まり、それを聞きつけて人が集まったと考えられます。実際厚真は川に恵まれ、胆振地方の中でも霧が少ない内陸性の気候であることに加えて、隣町の早来町には夕張の石炭を室蘭港へ運ぶための鉄道もできていて、交通も整備されていたことも人が集まりやすい要因になったと考えられます」(乾さん)。
想像を絶する苦難と努力の末に
当時の開拓は、土を耕せばすぐに芽が出るほど単純なことではありませんでした。前述の「水田発祥の地」野安部においても稲作1年目は稲わらが伸びるばかりで収穫はなかったと言います。また、石川県出身の亀井三四郎氏を団長とする35戸の一団は、頗美宇地区に入り山林原野の開拓を始めるものの、あまりの過酷さから次の年には12戸まで減少しています。その翌年には追い打ちを掛けるように洪水被害を受けて主食は皆無となり、救済援助を受けました。それでも人びとはここを新天地と信じて大地を耕し、種をまき、歯を食いしばって少しずつ生活の糧を得ていきました。
一俵でも多くの米を得るための工夫や研究も行われた中で、偶然から生まれた「大発明」もありました。
明治33年頃、当麻内(トウマナイ/現在の豊沢)の佐羽内良助は家の壁を塗って余った粘土を田んぼに捨てました。すると翌年、その場所が大豊作となりました。これを真似て当麻内の人びとは田んぼに粘土を混ぜ込むようになりました。いわゆる「客土法」の始まりです。その後、噂を聞きつけた北海道庁の技術員が視察に来て、全道に奨励しました。昭和31年発行の厚真村史には「全道における土地改良としての客土法こそはわが厚真村を母として誕生した」と書かれています。これに勢いを得て明治40年以降、用水、かんがい溝、排水工事などの整備が進み、今日の米どころ厚真の礎が築かれていきました。
厚真は明治30(1897)年7月1日に苫小牧村から分離独立を果たします。その後、農業の発展、道路の整備に伴って人と物が集まるようになり、大正時代には急速にまちとして発展していきました。そうした中で冒頭の開村三十周年を迎えたのです。
乾さんは言います。「厚真の歴史は農業の発展とともにありました。夏は農業に汗を流し、冬は木を伐って炭を焼く。現在にも通じる働き者の厚真人気質は、間違いなく先人から受け継いだものでしょう。真面目で一途に仕事に打ち込む一方で、偶然からヒントを得て客土法を生んだ佐羽内さんのような柔軟さも持ち合わせている。
開村から120年を経た今、厚真の農業は担い手不足などさまざまな問題を抱えていますが、先人から受け継いだ肥沃な大地と、新千歳空港に近い交通アクセスの良さ、先人譲りの気質をもって厚真らしさを磨きあげ発信することで、厚真の農業は未来に向けてさらに発展する可能性を秘めていると私は信じています」。
開拓の歴史を足早で追いかけた後、改めて冒頭の写真を眺めると、乾さんが語るように3人の紳士の表情に「喜び、感謝、自信、誇り」が読み取れます。その気持ちに思いを重ねた瞬間、九十余年の歳月を飛び越えて託された、この地を次の世代へつなぐ「責任」というバトンの存在に気づきました。
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文=長谷川圭介(KITE)