震災後に必要になった“子どもたちの居場所”。まちの中と外の人が結集してつくり上げた「ハッピースターランド」
2019年4月10日
2018年9月の北海道胆振東部地震の後、まちには緊迫感が漂っていました。
そうした雰囲気を敏感に受けとりやすいのが、子どもたちです。
「まちの子どもたちのための、居場所と遊び場を」。
そんな配慮から、町内のある広場につくられたのが「ハッピースターランド」でした。
そこには、訪れた人を和ませる居心地の良さがあったといいます。
その空間を支え続けた、4名の方に話をお聞きしました。
子どもが順応できるような環境をつくる、けん玉クラブが誕生
「ハッピースターランド」の立ち上げのきっかけになったのは、厚真町に移住し、厚真町教育委員会生涯学習課 社会教育グループに勤める斉藤烈さんでした。
— 斉藤さんは“けん玉・けんちゃん”として知られているそうですね。
斉藤:はい。厚真町へ来る前は、道内にあるオリエンテーションや研修を行う青少年教育施設で働いていたんです。そこに勤めていた2014年頃、個人的に「何かおもしろいことをしよう」と始めたのがけん玉でした。首にけん玉をぶら下げていたら、施設に来る子どもたちが興味を持ってくれ、見せたら笑顔になったことで「けん玉は誰もが遊べるし、コミュニケーションツールにもなる!」と気づき、それからずっと続けています。
2016年、ある研修に参加して出会ったのが、厚真町役場の宮下桂さんでした。お話ししていて「熱い人だな」と感じました。「君は将来何をやりたいの?」と聞かれて「学童保育をやりたいです!」と答え、関心を持っていただいたんです。
その後、ネットで宮下さんが出ている記事「厚真町役場・行政は頭が固いなんて言わせない。有志のプロジェクトチームが仕掛けた、新しいこども園」を読んで、「厚真町役場に入ろう!」と思いました。教育現場にいて何かを変えられることはなかなか少なかったので、現場を理解しているこういう自治体に入ったほうが、現場を動かせるのかなと思ったんです。
役場の面接では「日本一の『放課後児童クラブ』をつくりに厚真町に来ました!」って言ったんです(笑)。ただ調子に乗って豪語したわけではなくて、厚真町の「放課後児童クラブ」が、月額1,000円であること、共働きではなくても入れること、「放課後児童クラブ」専用の建物があることなどとても魅力的で、本気でそう思って言いました。
— それで移住し、2017年4月から厚真町役場へ入ったのですね。
斉藤:はい。宮下が上司になり、「放課後児童クラブ」のコーディネーターとして運営に関わっています。また仕事の傍ら、2018年5月に個人活動として「厚真けん玉クラブ」を立ち上げました。週に1回集まって、けん玉をやるだけのクラブです。
子どもを中心に、今は約50人の会員がいるんですよ。つまり町内の約1%が「厚真けん玉クラブ」会員です。一番下が4歳で、上は70歳ぐらいでしょうか。年会費は500円。
途中で帰ってもいいし、途中で来て最後までいてもいいし、来てもけん玉をやらない子もいます。一般的な「けん玉教室」のように技を教えたりもしません。けん玉をやるだけが目的じゃなくて、けん玉をやる場があって、お父さんやお母さんが子どもを預ける感覚で来て、編み物をしたり、お茶を飲みながらしゃべったりできる場なんですよ。
僕、「teaching without teaching(ティーチング・ウィズアウト・ティーチング)」という言葉が好きなんです。教えなくても教えている状況をつくれるかどうか。子どもをその環境に順応させるんじゃなくて、順応できるような環境をつくる。こうした考えで運営していて、これが後に「ハッピースターランド」でも生かされました。
声かけで、約300人がボランティアとして来てくれた
— そして9月6日に北海道胆振東部地震が起きました。
斉藤:僕は当時正職員ではなく嘱託職員だったので、役場は救助活動やライフラインの確保などで騒然としていたものの、僕には震災対応の業務避難所の勤務がなかったんです。発災直後の対応避難所生活では、学校がしばらく休みになった子どもたちの居場所を確保することが大きな課題になりました。「誰か、子どもたちの相手をしてくんないか」と、てんやわんやしていたんですよね。
僕は「じゃあ遊びますわ!」と、まずスポーツセンター避難所にあるプレイルームに子どもたちを集めて遊んでいたんですよ。そこに私物のけん玉を20個持ち込んだのが、「ハッピースターランド」の始まりになりました。
— それが少しずつ広まっていったんですか。
斉藤:9月7日の夜、僕の携帯電話は圏外で使えなかったので、日高から避難所に来てくれた知人の携帯電話を借りて、Facebookで状況を発信したんです。そしたら友人がたくさんシェアしてくれて、広がっていきました。
みなさんの行動が素早くて、おかげで翌日には「あつまスタードーム」横の広場にテントやタープを設置できました。すごく嬉しかったですね。いろいろな団体が入ってきて、またつながりができて集まって来る。合計でのべ300人ほどのボランティアが来てくれました。子どもは一日平均で、15〜20人ほどです。
テントやタープのほか、多くの方や団体の尽力で「ハッピースターランド」に用意されたのは、焚き火台、薪割り機、スラックライン、手づくりブランコ、けん玉などです。敷地内に、小川も木々もありました。町内で馬搬林業に取り組んでいる西埜将世さんが馬を連れてきてくれたこともありました。原状復帰を条件に宮下が運営を任せてくれました。
毎朝僕がやっていたのは、焚き火台を囲むように椅子をいくつか置いて、一つに座るんです。子どもが来たら「おはよう、まぁ座れ」とか言って(笑)、座らせて「今日何やる?」と話しかける。
そしたら子どもたちは「俺は川遊びやる」「薪やろうかな」とか言うんです。子どもと関わるとき、子どもに選択肢を与えることが一番大事だと思っています。「選択肢はいっぱいあるよと。どれを選ぶかは君たちの自由だし、何も選ばないっていう選択肢もあるから」という状況をいかにつくり出すかを意識していました。
「ハッピースターランド」という名称も、子どもが決めたんです。子どもが「なんかここってみんなハッピーだし、『ハッピースターランド』にしよう」と、勝手に看板をつくったんですよ。
ボランティアと地域側のパワーの、変圧器の役割が重要だった
現場の運営には、いくつかのNPO法人が関わりました。その一つが『NPO法人ezorock』です。2000年に北海道石狩市で行われた野外音楽フェスティバル「RISING SUN ROCK FESTIVAL」で環境対策活動に取り組んだことを機に設立され、その経験をさまざまな社会課題の解決のために横展開させている組織です。厚真町とはどのようにご縁が始まったのでしょうか。『NPO法人ezorock』代表の草野竹史さんはこう話します。
草野:講演や社会教育の研修会で厚真町役場の方とご一緒したり、厚真町に住む友人がいて震災前から「放課後児童クラブ」に行ったりして、厚真町とはお付き合いがありました。
震災の支援活動は東日本大震災から始めて、熊本地震、南富良野町の浸水被害、石狩市浜益区の大雨災害にも関わっていました。だから北海道胆振東部地震が起きたときも、7日までに備品の準備と必要な支援物資のリスト作成をして、8日から「安平町災害ボランティアセンター」の立ち上げ支援を行いました。厚真町には11日から入っています。『ezorock』で行ったいくつかの支援活動の一つが、「ハッピースターランド」です。
子どもたちがいつでも来れる状況をつくるため、毎日現場が必要とする人数を必ず確保し、役場の宮下さんと斉藤くんのオーダーには基本的にすべて応えようと決めました。
厚真町に入っていた『ezorock』スタッフの水谷あゆみさんと、会員で学生ボランティアの井口希さんにも加わっていただき、お話をお聞きしました。
水谷:毎日札幌のオフィスから、スタッフやボランティアとハイエースに乗って厚真町へ通っていました。実際に子どもたちと遊ぶのはボランティアにまかせて、私は停めた車から各所へ連絡し、日々のボランティアの確保に奔走しました。9月までは大学が休みなので大学生が来てくれたのですが、それ以降はなかなか大変で……。
それでも、うちには会員が約300人いて、そのうち通年で活動に参加している人が150人ほどいます。今回はOBやOGも参加してくれました。結果として、厚真町や安平町にのべ350名ぐらいが来てくれました。多いときは一日に10〜15人、平均で4~5人ですね。
— ボランティアに行く人には、どう説明してから現場に向かったのですか。
水谷:説明するのは難しいんですけど、いつも「まずは子どもたちと楽しく遊ぶこと」と伝えていました。ボランティアメンバーの「災害支援に行くんだ」という意気込みと、現地の「子どもたちとただ楽しく遊んでほしい」というニーズの間で、そのズレをチューニングしていく作業が大事だったからです。
草野:僕はよく「電圧が違う」という表現をするんですけど、ボランティアに行く人のパワーと地域側が求めるパワーが違っているとき、その変圧器の役割をしないとみんなが不幸になってしまうんです。これはいつも強く意識していて、それを北海道でつくるのが僕たちの活動のミッションの一つです。
ボランティアが今、まちの関係人口になっている
— 実際に子どもたちと接した井口さんは、いかがでしたか?
井口:まちには自衛隊の車がたくさんあって、物々しい様子でした。それで子どもが外で遊べないところもあって。やっぱり外で遊べないのは子どもにとってすごくストレスだったみたいです。そこに「ハッピースターランド」が登場したので、子どもたちにとって特別な場所になっていました。
人気だったのは、薪割でした。機械をゴキゴキと動かすと油圧で薪が割れるんです。それが「楽しい!」と、子どもが順番待ちするときもあったほどで。薪割体験というよりも、遊び道具の一つとしてポンと置いてあった感じでした。
あまり子どもと一緒に遊んだことがなかったので、最初は「何をしたらいいんだろう」と心配だったんですが、子どもたちに手を引かれたり、「ここはボランティアとか、そういうの関係ない場所だから」とお母さんたちに優しく声を掛けていただき、だんだん「子どもたちもそうだし、私たちも何をしてもいい場所なんだな」と分かってきて。それがすごく心に残っています。
草野:「ハッピースターランド」では、何をしても、やってもやらなくても、どの状態でいてもいい。すべての選択が許される状態を維持することが一番重要だったんですよ。宮下さんと斉藤くんが、そういう空間をつくるんだという強い決意を持っていました。
井口:何度も行き、自分の顔や名前を覚えてもらって関係性ができていくなかで、まちのことがどんどん「自分ごと」になっていきました。住んでいるまちではないけど、迎え入れてもらったおかげで、「行っていい場所、帰る場所」のような感覚が芽生えました。
私は今農業の勉強をしています。農業面で厚真町はすごく可能性を秘めていて、つくれない作物はないと言われているほどです。農業をやりたい若者を求めていると聞いたので、厚真町で、農業で何かができたらいいなと考えています。
「ハッピースターランド」は9月17日まで運営され、それ以降は教育委員会の主催で「週末子ども広場」という名称になりました。現在はどうなっているのでしょう。斉藤さんに聞きました。
斉藤:「週末子ども広場」は役目を終えて12月初旬にクローズとなりました。でも、好評だったことから、一部を引き継ぐ形で「焚き火を囲もうin厚真」という定期イベントが今も開催されています。
また、『ezorock』さんの札幌のオフィスで「厚真ナイト」というイベントを開催したり、学生ボランティアの人たちが「放課後児童クラブ」を手伝いに来てくれたり、交流は続いています。今後、厚真町に関わる人が増えて、子どもも大人も楽しめる、遊び込めるような遊び場がまちにたくさんできていったら最高ですね。