厚真町の林業が熱い。森人たちの挑戦の軌跡と、描く林業の未来(前編)
2024年1月28日
自然豊かな厚真町には、林業家や木工作家、デザイナーなど個性あふれる森人たちが全国各地から集まっています。ローカルベンチャースクール(LVS)を通じて厚真町で起業した西埜将世さん、中川貴之さん。そして、町内唯一の林業会社として地域の林業を牽引する丹羽智大さんなどは多様なバックグラウンドを持つ人たちの融合により、新時代の林業が芽吹き始めています。今回は、この中から西埜さん、中川さん、丹羽さんの3人にこれまでの道のりを振り返り、厚真町の林業の未来について語ってもらいました。
厚真町ローカルベンチャースクール(LVS)2016に参加した西埜さん
プロフィール
西埜将世(にしの・まさとし)さん
1980年、恵庭市生まれ。岩手大学卒業。自然体験施設や林業会社などに勤めた後、牧場会社の仕事で馬に関わる。「厚真町LVS2016」で採択され、地域おこし協力隊に。「西埜馬搬」を開業し、馬を使った林業のほか、馬耕、野外教室、ハスカップ栽培など事業の裾野を広げている。
西埜馬搬 https://nishinobahan.com/
心と体に正直になり、たどり着いた馬搬
―大学時代に森に関わるようになったそうですが、森や林業への興味の原点はどこにあるのでしょうか?
もともと森に強い興味があったわけではなく、ふんわりと外で働ける仕事がいいなと思っていて。森や木に携わる仕事って、砂漠に木を植えるとか、環境を守るとかイメージが良かったんですよね。具体的には、大学時代にヒグマを研究している先生の授業をきっかけに野生動物の研究室に所属し、白神山地や青森県の津軽地方にある村に住み込みながら、野生動物の調査を続ける中で森との接点が増えていきました。その頃から、里山で暮らす人たちの知識量の多さや深さへの興味が尽きなくて。田舎の面白さも、じわじわと感じはじめていたと思います。
―大学卒業後は、すぐに林業を仕事にしたのですか?
最初に就職したのはネイチャーセンターで、子どもたちに向けて自然体験プログラムを実施したり、プレーパーク(自発的に遊び、創造性を育む場)の業務を担当しました。この時期に保育士の資格を取得し、自然に関するさまざまな知識を学んだり、コンテンツ作りみたいなことをやってきましたね。
―日本では珍しい“馬搬”にたどり着いたのは、どのような経緯ですか?
結婚を機に林業会社に転職したんですが、そこでの業務は自分が抱いていた「森を育てる」とか「じっくり木と向き合う」といったイメージとは違って、機械的で効率的でした。国有林の造材と造林を手がけていましたが、「はい、この一列を切ってー」という感じで淡白だったんですよね。技術の習得も「見て覚える」のが基本だったし、正直なところ精神的にも体力的にもキツかった。唯一、60代の親方が可愛がってくれて。その人から学べることが多く今でも役に立っているんだけど、寝つきが悪くなるくらいに心がザワザワしていました。
そんな時、以前の職場の上司にヨーロッパで盛んなホースロギングという林業技術があることを教えてもらったのが事の始まりです。YouTubeやテレビで馬搬の様子を見るうちに、「自分でもやってみたい」と思うようになって。同時期に立ち上げから関われるとのことで誘いがあり、道南の観光牧場に転職しました。
馬と並んで、階段を一段ずつ
―馬搬の技術は、どうやって身につけたのですか?
僕の場合は、牧場勤務時代に道南で馬搬をやっていた70代の方にお話を聞いたり、一緒に山仕事をさせてもらいました。短い期間でしたけど、とても貴重な時間でしたね。現場ごとに環境が変わるので、本当は今もたくさん聞きたいことがあるけど…。馬搬技術を使って林業をしているのは国内に10人ほどで、技術を教えてもらえる先輩が非常に少ないのが現状です。毎回全く違う現場に向き合わなければならないので、今でも試行錯誤の連続です。
―仕事を一から作っていくのも、なかなか大変なことですよね。
まずは馬搬自体を知らない人が圧倒的に多いので、ハードルの低い小規模な現場を少しずつ請け負っていきました。自分の力でできるのか不安もあったので、本当に一歩ずつ階段を上がっていくというか。そうしていくうちに馬搬が認知されはじめ、徐々に声をかけてもらえるように。馬が多機能なおかげで、林業だけでなく、教育(子どもたちに向けた馬との交流)や農業(ワイン用ブドウ畑の馬耕)、観光分野にも事業範囲が広がっていきました。
―いつ頃から、仕事の手応えを感じるようになりましたか?
起業型地域おこし協力隊の任期が終わった後、これまでに経験したことのない規模の現場を任されたことがありました。馬だけでなく、重機や人手も必要だったので、経費がかさんで最終的には利益を生むことはできなかった。だけど、“経験値・人・繋がり”という資産を手に入れました。大学生や森林に関わる団体、馬の仲間とその家族。林業家や旅人。みんな面白がって、手伝いに来てくれて。
それから、現場を見にきてくれた林業会社の人に「よくやったね。重機でもやりたいと思わないほど、大変な現場だよ」と言ってもらえたことは自信になりました。長年の技術、組織の力、機械のパワーを持っている企業でもやりたがらないような現場を、自分でやり切れたんだって思えたんです。
―実際は、理想と現実のギャップもあったりするのでしょうか?
コンディションを保つためにも、馬にとってちょうど良い負荷の仕事をコンスタントに用意してあげたい。でも実際は仕事が集中したり、逆に期間が空いてしまったりと作業の配分が難しいですね。馬の負担を減らしてあげたいので便利な機械も欲しくなるんですが、それが行き過ぎると馬のいる意味がなくなって本末転倒になってしまう。自分がやりたいこと、馬の強みや馬搬の価値を言葉できちんと表現できたらいいなと思っていますが…。いつも悩みながら、迷いながらです。
こんな仕事があってもいい。誰かの琴線に触れる喜び。
―悩みながらも、この仕事を続けられる理由はどこにありますか?
第一に、楽しいから。馬と一緒に初めての現場に挑戦して、ステップアップしていく充実感があるんです。そして仕事をしながら、自分自身がホースセラピーを受けているっていうか。大人になって社会に出ると、感情を出さなくなりがちじゃないですか。だけど、馬には喜怒哀楽をストレートに出さないと伝わらない。心と体が一致していないとダメなんですよね。自分をそのまま出せる機会が日常的にあるって、良いことなんじゃないかな。
―仕事をすることで、自分を解放できるようになったんですね。以前のようなザワザワを感じなくなりましたか?
そんな気はしますね。気持ちの良い仕事だなって。今、日本で馬搬をやる人はほとんどいないけど、「こんな仕事があってもいいじゃん」って思える仕事だからやり続けられているんだと思います。
もう一つモチベーションになっているのは、馬搬をやってみたいと言ってくれる人が現れ始めていることです。町内の小学生の中にはカップ(西埜馬搬のエースの馬)が大好きで、作業現場を見にきたり、イベントがあるたび家族と見に来てくれる子もいるんですよ。その他にもすでに馬搬を生業にすることを志して、アルバイトに入ってくれている人もいて。見てみたい、やってみたいという気持ちが湧き上がるって、すごい感動する。自分がやっていることが、“誰かの何か”のきっかけになっているのは嬉しいですよね。ただ単純に木材を引っ張って運ぶだけでなく、それを見た人が感動してくれることにも馬搬の価値を感じます。
―馬がもたらしてくれるものは、たくさんあるんですね。5年後、10年後を見据えてチャレンジしたいことはありますか?
まずは馬が幸せに生きていけるように、より良く環境を整えたい。それから、馬にとってのコンスタントな仕事づくりですね。経営としては林業現場だけにこだわらず、林業と造園業の間のような立ち位置が馬搬の生きる道のような気もするんです。広い公園の整備や遺跡の周りにある巨木を搬出するとか。馬用の芝刈り機で草刈りをしたり、昔のように田んぼの代掻きをしてもいいですね。馬を通じて世代間コミュニケーションが発生して、カオスな場を作っていけたら面白いと思っています。
厚真町ローカルベンチャースクール(LVS)2016に参加した中川さん
プロフィール
中川貴之(なかがわ・たかゆき)さん
1982年、札幌市生まれ。北海道教育大学釧路校卒業。22歳で林業の世界に入り、製材業を経て、「厚真町LVS2019」にて採択。地域おこし協力隊卒業後は『木の種社』として活動。(一社)ATSUMANOKI96代表理事としても活躍。
一般社団法人 ATSUMANOKI96 https://www.atsumanoki96.com/takayuki-nakagawa
見えてきた林業の理想と現実
―中川さんは、大学時代にキャンプで薪割りをしたのがきっかけで木への興味が湧き、そこから林業の道に進んだとのことですが…。
周りに林業をやっている人が誰もいなかったから、というのもありますね。親が公務員だったのもあって、その対極にある職人の仕事に就いてみたかった。ボタン一つでストーブの火をつけるみたいに物事を完結させるんじゃなくて、「何でも自分の力でできる人間になりたい」っていう憧れもあったかな。林業会社は、ハローワークで求人を探して入社しました。だけど木をひたすら切って山を次々と渡り歩くスタイルが嫌になって、1年で退職してしまったんです。
―早速、理想と現実のギャップにぶつかったわけですね。想像していた林業はどんなイメージでしたか?
数十年、100年という単位のものとじっくり向き合っていくイメージがあったんですよね。実際は1本1本、一山一山に思いをかけられないことにギャップを感じて。その後は林業を離れてみた時期もあったけど、やっぱり1年じゃ何も分からないよなと考え直して、道東の林業会社で再チャレンジしました。ここでは国有林の植え付けや間伐をしたり、大きな広葉樹を切る経験もできました。
―その会社で働いたことがベースになっているんですね。
師匠的な人との出会いもこの会社で。70代の高齢で小柄でしたが、精度が高い仕事と量をこなす人でした。道具の手入れを欠かさず、時間の使い方も上手で、学ぶことが多かった。だけどそのうち、チェーンソーの作業から重機の担当になったことで「この仕事は自分じゃなくても、いいんじゃないか?」と感じるようになって。業務自体もだんだんと量や効率重視に向かい、職人の技術の世界から「質より量」の世界にシフトしていったので、そろそろ別な世界も見てみたいなと。
―現在のメイン事業でもある製材業に関わるようになったのは、その頃ですか?
そうですね。次は製材の仕事や木材の流通を知りたくて。ナラやシラカバ、カエデ、サクラなどあらゆる広葉樹を扱う道南の製材所に勤めました。その製材所の社長が工場作業だけではなく仕入や販売などあらゆる現場を見せてくれたのが大きな糧になりました。林業の仕事をしていた時は、自分の切った木が最終的にどうなるのか分からなかったので、純粋にその先がどうなっているのかを知りたかったんですよね。それから、人気のある木と、そうでない木の種類があることに疑問を感じていました。需要のない木は、そこそこ太くて真っ直ぐなのに紙の原料としてチップにされるんですよ。細い木や少し曲がった木も同様に、溶かされて形がなくなっていく。しかも安い。
そのうち、林業現場にいるだけでは見えなかった木のニーズが分かってきました。そして、これまで需要がないと思っていた木は、もしかするとメインストリームから外れているだけなんじゃないか。その外側にいるユーザーと出会うことができれば、必要ない・使えない木なんてないんじゃないかと思うようになりました。実際に需要の少ない種類でも、加工してみると綺麗だし、むしろ個性があって素晴らしい木なんですよね。
一緒にチャレンジしてくれるお客さんが救いに
―独立を決断したのは、どうしてだったんでしょうか?
林業も製材業も作業員として働く限り、このまま変化はないだろうなと思ったんです。言われた仕事を言われるままにただこなすだけなら、いくら木や森が好きでも定年までは働くイメージができなくなるし、最後はやっぱり自分でやってみたいと思うわけですよ。これまでの経験で、木に関する一連の流れが分かったので、自分で製材所を作れば地域資源を生かせるし、エンドユーザーにも価値を繋ぐことができるだろうと。きっとそれが、自分の本当にやりたいことなんだと気づいた感じかな。
―紆余曲折を経て、やりたいことが固まっていったんですね。
自分が死んだ先の世代にも森を残し、伐採した木はくまなく使って、皆に届くようにする。そういう発想が業界にはなかったから、自分はその役割を担えればいいかなって。厚真町は資源が豊富でエンドユーザーとの距離も近いし、起業を後押しするLVSのような仕組みや環境が揃っていたので、思い切って飛び込めば可能性があるんじゃないかと思いました。
―2023年には、念願の製材所を立ち上げました。
資金が潤沢にあったわけではなかったから、地域おこし協力隊時代は植え付けや下草刈りの仕事も請け負いました。資金が貯まってきて、人脈も広がりはじめ、ニーズもつかめてきたのでなんとかいけるだろうと製材所を立ち上げました。未来や山の環境のことを考えずに伐採した木や、外国から仕入れた木など何でもかんでも製材するのは自分のポリシーから外れるので、町内や近隣市町村で伐採したバックグラウンドの分かる木を仕入れて製材しています。こういった木が手に入るのは、一緒に山に入り、仕事の仕方も見える丹羽さんや西埜さんがいるからでもあります。
製材所を建てた後も、とにかく立ち止まらずに動き続ける日々です。製材所で働いた経験はあるといえども、オーダーに対して納得できるクオリティの製品を提供するためには、製材所の中で作業をするだけでは分からない声を拾いに歩く必要も。大工さんの意見を聞いたり、エンドユーザーのお客さんのところに行って使用感を確認しています。
―今まで手がけたことのない製品を頼まれることもあるわけですね。そういった初めてのものを作るチャレンジができたのはなぜですか?
「やってみていいよ」と言ってくれるお客さんがいることかな。例えば、数種類の広葉樹で作るミックスフローリングなんかは、他の会社はやりたがらないんですよ。木の性質・品質によって伸び縮みしたり、そったり、割れたりすることもあるし。その時々に手に入る木が異なるから再現性がなく、一般の流通に乗せにくというのもあります。
でも、ありがたいことに木は自然の産物でありそれぞれに個性があること、林業の仕組みなんかも含めて理解した上で、一緒にチャレンジしてくれるお客さんがいるんですよ。決して自分一人の力ではなくて。地を這うように、木屑にまみれてもがいている姿を見てくれている人たちが面白がって人を繋いでくれているから実現しているんですよね。
一緒に持続的な林業、持続的な製材業を目指して進んでくれているように感じて
―新たにぶつかっている壁はありますか?
今の課題は、もう少し事業の規模を大きくすることです。製材所を建てた限りは機械を遊ばせておくのはもったいないので、製材のお客さんを途切れさせないようにニーズを探していく。一方で、製材作業が追いついていないので、自分の生産力を上げて、一人でも多くの人に商品を届けられるようにしていきたい。
製材業だけで利益を出そうとすると、とにかくお客さんを探し続けなければならないし、結局どんな木でも仕入れて安く売る…みたいな流れに向かってしまいかねません。自分のポリシーに反してしまわないためにも、安定的な収入源となる林業とのハイブリットがいいんじゃないかなと思っています。製材所を潰すようなことになれば、地域の森の木を生かすこともできなくなっちゃいますから。何としてでも継続していかなければと思っています。
―事業バランスが難しいんですね。ポリシーや目指す未来の話を伺ってきましたが、中川さんは今の仕事を何のためにやっていると思いますか?
半分くらい、自分の役割のように思っていますよ。どういう縁か分からないけど、薪割りから林業や製材に出会い、そこで師匠や社長に巡り合えてここまできた。自分の実力だけじゃなくて、本当に恵まれていたと思うんです。恩返しとは少し違うけれども、この道で頑張っていくのが自分の役割なんじゃないかみたいに勝手に思っていて。
それから、続けることの大切さってあると思う。林業はずっと斜陽産業と言われ続けてきましたが、いつかチャンスが巡ってくると思っていました。SNSで情報が届くようになり、木材を上手に使っておしゃれに見せるデザイナーや建築士も台頭してきたことなど、社会全体が持続的な林業を後押ししてくれる時代になったと思う。だから粘り強くやる、続けるって大事だと思います。
町内唯一の林業会社として地域の林業を引っ張る丹羽さん
プロフィール
丹羽智大(にわ・ともひろ)さん
1987年、厚真町生まれ。宇都宮大学農学部森林科学科卒業。卒業後は民間企業勤務を経て、1958年に祖父が創業し1990年に法人化された『有限会社丹羽林業』に入社。現在は、専務取締役として会社を支えている。2019年、地域の森林づくりの後継者である北海道青年林業士に認定された。
丹羽林業 https://www.instagram.com/niwa_forestry/
自然な風景として側にあった林業
―丹羽林業は、どのようなスタイルの林業を手掛けているのでしょうか?
町や企業が所有する山から木を切り出し、チェーンソーや重機を使って丸太にする造材。植え付けや間伐をして、森を維持管理する造林などをトータルで行っています。トラックで運材もしていますね。従業員を抱えて林業を続けているのは、町内ではうちだけになりました。現場によっては西埜さんや中川さんのような個人林業家と連携して、業務をすることもあります。
―地元・厚真町に戻って家業を継ぐことは、昔から決めていたんですか?
そうですね。小さな頃から、創業者である祖父に後継ぎのことを言われていたので、自分の中ではそういうものだと思っていました。現場に連れて行ってもらったことは数えるくらいしかなかったけど、実家の裏が会社の土場だったので、重機が置いてあったり、従業員さんがいたりして、林業は当たり前の風景として側にありました。
―親が楽しそうに働いていたり、仕事に対する良いイメージを持っていると家を継ぐ人が多い印象ですが、丹羽さんの場合はいかがでしたか?
林業や会社に対するマイナスなことは、祖父からも父からもあまり聞いたことがないんです。祖父は早くに亡くなってしまいましたが、その後も父から「うちの理念は〜」とか「こんな経営にしろ」とか押し付けられることはなかったし、自由にしろと。唯一、従業員さんから「学校を卒業してそのまま実家に戻らずに、一度は外の世界で修行をしてこいよ」と言われていたのは覚えていて。社会感覚を身につけなければダメだという感覚があったので、大学卒業後は苫小牧市の企業に3年間勤めました。
―丹羽林業に勤めて10年が経ちますが、実際に林業に携わってみていかがですか。この間に、ぶつかった壁はありましたか?
壁や失敗は常にありますよ。実は昨日も失敗してしまって(笑)集材のための重機が通りやすいように、森の中をルートに沿って伐倒していたんですが、チェーンソーが木に噛んで抜けなくなってしまうアクシデントがありました。アクセルのちょっとした握り加減の違いで、失敗につながることもあるんです。自分では技術が身についてきたところかなと思っていただけに、悔しかった。反面、次にどうやって失敗をクリアしていくかを考えるのも、やりがいにつながっているんですけどね。
個人と会社の狭間でもがきながら
―現在は専務取締役として会社の経営を考える立ち位置にいらっしゃいますが、会社として目指す林業と、個人として目指す林業、違いはありますか?
会社としてはクライアント(山主)の依頼で造材や造林を行い、主にその作業費が収益になります。ですから、いかに効率化してコストを下げるかが勝負です。その中心になっているのが針葉樹の人工林。重機購入などの投資を回収するためには、数をこなしていかなければなりません。北海道の林業は同じようなスタイルが多いと思いますが、現場で働く人にとっては体力的にも厳しくなるので、もう少し余裕を持って事業を回すことはできないものか考えています。
そのためには、広葉樹の森づくりをもう少し進められたらと思っているんです。状態にもよりますが、平均すると広葉樹の方が高い値段で売れるので、1本の価値を高めることで同じ丸太であっても利益的に差が出てくるはずです。
個人的にも、より自然に寄り添った林業が実現できたらいいなと思っていて。例えばこの辺りには針葉樹のカラマツが生えていますが、もともと北海道にはなかった樹木で、道外から持ってきて植林した歴史があるんですね。もちろん北海道でもうまく成長していますが、健全に森を維持するためには草刈りや間伐などの手入れが常に必要です。さらには、周囲に自然と生える広葉樹を伐採する必要も出てきます。それって、すごい手間がかかることじゃないですか。
―なぜ、広葉樹の方が高い値段で売られているのにそれが主流ではないのでしょう?
広葉樹を主体とした利益を作るノウハウがないこと。それから、手間と時間も必要です。本当に価値のある広葉樹の丸太を作ろうとすると、おそらく80年くらい長い時間をかけて成長させなければなりませんから。一方で、人工林のように一度人の手が加わったものは、人が手をかけ続けて“保全”しなければならないので。放置すると木が細くなって災害の影響を受けやすくなったり、結局は木材としての価値も下がりかねません。人工林をしっかりとコントロールしながらも、広葉樹の良さを高めていく。そのバランスがなかなか難しいところです。個人的に取り組みたい林業を貫き通そうとすると、会社としてはプラスにならない。その狭間で、もがいている感じです。
―すぐに成果が見えないからこそ、周りを納得させたり、取り組みを進める難しさがあるんですね。長い年月を必要とし、自身もその結果を見られるかどうか分からない側面がある林業ですが、モチベーションはどこに感じていますか?
人間の力が及ばない自然の中で、どんなふうに木を植えたり、切ったりすれば山や森が良い姿になるか。将来を想像する楽しさがあるんですよね。そのスパンが長ければ長いほど、より面白い。全国一律ではなく、地域によって気候も土壌も同じものが一つとしてないところも林業の魅力です。僕は次の世代を考えずに、「とりあえず、今だけ良ければ」という仕事はやりたくなくて。未来のために何ができるかを考えていきたい。もちろん、地元に唯一残っている林業会社としての使命感もあって。周りの人たちが期待してくれるから、それに応えたいとも思っています。
もっと身近なところで言えば、季節を直接感じられる仕事ってそんなに多くないと思うんです。寒い冬を超えて、ようやく暖かくなった春の植え付け時期には「なんか今日はいいなぁ」って。全身で気持ち良さを感じられるわけじゃないですか。行き着くところ、厚真の自然が好きなんですよね。
自信を持って林業が楽しいと言える
―これまでの潮流とは異なる林業へ視点が広がったのはなぜでしょう?
仲間が増えてきたからでしょうね。地域おこし協力隊で移住した永山さん(記事はこちら⇒https://atsuma-note.jp/idomu_atsuma_niwaringyou/)をはじめ、LVSで起業した中川さんや西埜さんの存在が影響を与えてくれています。日々の多忙な業務の中で見捨てられてしまう木々を、何か一つでも価値あるものとして残していけないものか…と常々感じてきましたが、町外から森や林業に関わってくれている人たちとその思いを共有できるようになったことで気持ちが軽くなりました。そして、やりたいと思っていたことが少しずつ形になってきている実感があって。もし仲間がいなかったら、林業を仕事とプライベートに切り分けて「そういうものだ」と自分を納得させていたかもしれません。そうじゃなくいられる自分も好きだし、今、林業が楽しいですね。
―最後に、これからの取り組みたいこと、目指す林業の姿を教えてください。
林業の業界は、担い手の育成に力を入れてこなかったんですね。見て覚えるのが当たり前の世界で、教えられた経験がないから教えられない。技術を継承できる指導者を育てていくことが、丹羽林業の課題でもあり、業界全体の課題だと感じます。5年後、10年後を考えると、今から取り組まなければなりません。また、北海道や厚真町の自然や環境を最大限に生かした林業を、長い時間がかかるかもしれないけれど目指していきたいと思います。そのためには、木材にも地域性があることをもっとアピールできれば、会社としても、町としても勝負ができるし、生き残ることができるはず。
胆振東部地震の後に発足した「ATSUMA96% PROJECT」(https://www.atsumanoki96.com/)の活動は、まさに山主や消費者の皆さんに「木の個性や自然に寄り添った林業になぜ価値があるか」について伝える手段の一つだと感じています。プロジェクトメンバーは、森の循環と再生を大切にしている人たちで、10年前には想像もできなかった流れが見えてきました。もしかすると、10年後はもっと良い方向へ変化しているかも。そのためにも、今が頑張りどきです。
それぞれの課題を持ち寄り、厚真の林業について語り合う3人の座談会は、後編で。
後編はこちら⇒https://atsuma-note.jp/atsuma-ringyou-team/
個性ある森人たちと一緒に、厚真町の林業を育ててみませんか?
ローカルベンチャースクールについて詳細はこちらを参照ください。
厚真町 ローカルベンチャースクール https://atsuma-note.jp/lvs/
2024年度の募集は締め切りました。たくさんのご応募ありがとうございました。
2025年度に向けてローカルベンチャースクールに関するお問い合わせは随時受付中です。
また、厚真町で林業に関わりたい方は是非一度、お気軽にお問い合わせください。
西埜将世さん(西埜馬搬)
中川貴之さん(木の種社)
丹羽智大さん(有限会社丹羽林業)
聞き手・文=長谷川みちる
写真=三戸史雄