母の想いを受け継ぎ、おいしいハスカップで厚真町を日本一に。

2018年1月9日

本州ではあまり聞きなれない果物、ハスカップ。北海道・厚真町の農家の4分の1が栽培しており、2013年には栽培面積日本一にもなった果物です。そんなハスカップを厚真町内で広め、6次産業化にも取り組んでいるのが、ハスカップファーム山口農園(以下 山口農園)。「すっぱい、渋い」と言われていたハスカップを、糖度の高い品種に育て、おいしい商品にするまでには、母親の努力と、それを受け継いできた5代目・山口善紀さんのチャレンジがありました。

開発の犠牲になりかけていたハスカップ

– 取材現場に訪れると、ちょうどハスカップジャムを作っている最中。濃い紫色の果実が鍋にぎっしりと詰まり、あまずっぱい匂いが漂っています。

山口:ハスカップの収穫は6月末から7月末まで。手作業で一粒一粒収穫して、糖度12~14のものをジャムの原料に使っています。特殊な鍋で煮詰めることで、果実のぷちぷち感を残したジャムができるんですよ。2014年には移動販売車「ハスカップカフェ」をオープンして、ハスカップソースやコンポートを使ったクレープ、スムージーなどを販売しています。

– 山口さんは、地域特産物マイスター(ハスカップ)として、ハスカップの栽培を町内で広めてきたと聞きました。本州ではあまり見かけない果物ですが、どういう歴史がある植物なのでしょうか。

山口:北方系の植物で、もともと北海道内全域に分布しており、何カ所かで自生して残っていた植物です。その中でも苫小牧や厚真町など、勇払原野がハスカップの大群生地となっていました。アイヌの人たちも、「不老長寿の妙薬」「幻の実」として、生で食べたり、塩蔵して保存食で食べたりしていたらしいです。

昭和30年代には、別の形でも食そうとハスカップを使った「よいとまけ」というお菓子が苫小牧市で販売されはじめたので、原材料として買い取られるようになって、農家のお母さんたちが、お小遣い稼ぎによく実を摘んでいたらしいです。子どもも、自分のお気に入りの樹を決めて、学校帰りにおやつにしたりね。僕が生まれる前の話だけど。

ただ、1970年代に苫小牧港や臨海工業地帯の開発に伴って、ハスカップが生えていた自生地が潰されることになっちゃったんですよ。そこで、「開発の犠牲にしないで、種を残そう」と保護の動きが起きた。厚真町の農家のみんなで野生種のハスカップを採りに行って、自分たちの土地に移植したんです。それまでは自生だったけど、この頃から栽培されるようになっていきました。

– その頃の山口さんは、まだ小さいお子さんですね。山口農園は、親御さんたちがやられていたんですか。

山口:当時の山口農園は兼業農家で、稲作と畜産をやっていた。おやじは働きにでていたので、おふくろが農業を頑張っていたんです。先祖は開拓民で、農園は僕で5代目。おふくろの実家も農家で、おじいちゃんおばあちゃんと、3年かけて3,000本のハスカップの樹を山から抜いてきて、うちには1,000本ほど植えました。その頃、ハスカップの実はキロ3,000~4,000円と高価で引き取ってもらえたということもあって、力を入れようと考えたらしいです。

でも野生種ですし、味や粒の大きさ、実がなる時期なんかも1,000本ともバラバラで。しかも野生のハスカップは苦い、渋い、すっぱい。おふくろはすっぱいものが苦手で、梅干しすら食べれないような人なんで、最初は食べ物だと思えなかったそうです(笑)

おふくろが、苦い実のなる樹を処分し続けた

– 大変な手間をかけて山から植え替えたものの、野生のハスカップはあんまりおいしくない。衝撃でしたでしょうね。そこから、品種改良につながっていったんですか。

山口:当時、母は「今はキロ3,000円とかで買ってもらえても、将来は絶対ハスカップ離れになってしまう。どうにかして美味しいハスカップをつくりたい」と思ったそうです。でも、本人は酸っぱいものが食べれないし、味見したくない。

どうしたかというと、7~8歳の僕と弟に「ハスカップを食べて歩いて、苦い実がなっている樹に印をつけなさい。1本苦い樹を見つけたら100円あげるから」といってアルバイトをさせはじめたんです(笑)一度苦いのを食べたら、舌がしびれて味がわかんなくなっちゃう。でもお小遣いほしさに、収穫期には毎年がんばりましたよ。

そうやって見つけた苦い株を、母は引っこ抜いて燃やしていたんです。他の家から「せっかくの貴重なハスカップ、燃やすんだったらちょうだいよ」って言われても、「こんな苦い実の樹はやれない」って、断って。

時代としては、「ハスカップはもともと苦いものだけれど、作ればお金になる」みたいな中で、山口農園は樹を引っこ抜いては、燃やして…。近所から見たら、うちのおふくろは「あの人は馬鹿だ、頭がおかしい」って感じだったと思います。

– まわりから変人扱いされても、お母さんは、諦めずにそれを続けていったわけですね。

山口:そうですね。振り返ると、子どもって舌が苦みに敏感なので、大人じゃなくって、子どもの舌で苦い樹を探したのは、実はとても効率のよいことをしていたんだと思います。苦くない実をつけている株の中から、「この実は大きくていいな」と思うものを採取して、種を撒きました。でも5年後、ちっちゃい実がついたので食べてみたら、ほぼ苦い。そこからまた苦いのを引っこ抜いて燃やして…。

全部で2,000本くらいは種から育てたみたいですね。育てて抜いてを15年ほど繰り返して。その頃からようやく「山口農園の実は苦くないし大きいね」って評判になった。農協でも評判がよくて、指名で買ってもらえる。おふくろも自慢していましたね。

– 子どもの頃から、苦い実を探して、品種改良につながるお手伝いをされていたんですね。学生時代から、農園を継ぎたいと思っていたんですか。

山口:いや、農家になるなんて全く思っていませんでしたね。おふくろは「農家は食べてけないから、農家になるな」ってよく言っていたし。僕も長男なんだけど家の手伝いが嫌いで、部活にばかり出て、家には早く帰らないようにしてた。

学校を出てからも、いったんサラリーマンになったんですよ。製紙会社に就職して、紙の原料となる木の組織培養をしたり、研究所で働いていました。木の研究所なんで、育種なんかもしていたんです。その頃ちょうど実家のハスカップの評判がよくなっていった。それを見て、「おふくろが苦い実のなる樹を引っこ抜いたり、いい実を選抜してたのって、実は育種だったんだな。すごいことをやってたんだな」ってようやく気づいたんです。

「ほんとにいい樹を増殖するのはいいけど、人に譲らないでうちだけで育てなよ」っておふくろに伝えたら、「わかった、そうする」って。いつも「おまえはバカだ」って言われてたけど、その時は素直に聞いてくれました。

農業を継ぎ、ハスカップで日本一を目指す

– お母さんの頑張る姿を見ながらも、10年ほど会社に勤め続けた山口さん。そこから、実家の農業を継がれたきっかけは、何だったのでしょうか。

当時勤めていた道内の研究所が撤退し、三重県に単身赴任になったんです。でも親父が病気がちだったため、父の田んぼを手伝うために、毎月こっちに帰ってきてはいました。かわりに籾を蒔いて、田植えして。2年間そんな生活をしていたんですが、有休も使い果たしてしまい、会社を辞めて厚真に帰ってくることにしたんです。

ちょうどその頃、ハスカップブームが起きて、うちの観光農園を訪れる客もどんどん増えるようになって。「ハスカップって面白い、これなら継いでもいいな」と思って、家を継ぐことを決めたんです。2005年のことですね。

– お母さんも後継者ができて、喜ばれたでしょうね。

山口:いやあ、おふくろは厳しかったですよ。僕はその頃34歳でしたけど、「40歳までに結果出せなかったら、辞めれ」っておふくろに言われたんです。「農家で結果出なくて、またサラリーマンに戻るんだったら、若いうちしか再就職できないだろ」って。

その頃、ちょうど病気がちだった親父が亡くなりました。米をやっていくことも考えたけど、新しく機械を揃えたりすると、3.6ヘクタールほどの田んぼでは利益が全然でない。田んぼは近所の農家に貸して、ハスカップ一本でやっていこうって決めました。

でも、おふくろに「ハスカップの育て方を教えてほしい」って言っても、「私の畑、勝手に見れば」みたいな感じなんですよ。手取り足取り教えてくれるとかは全然なくて、むしろ「今まで私が培ってきた技術をなんで人に教えなきゃいけないんだ」って(笑)。だから、独学で肥料を計算したり、母親の剪定を観察したりするしかなかったんです。

– お母さんが、よき師匠でもあり、ライバルでもあるような感じですね。ハスカップ一本でチャレンジされるというのは、すごい決断です。

山口:どうせやるなら、日本一のハスカップ農家になりたい。それには、僕がいる厚真町が、日本一のハスカップの町じゃなきゃ。そう思って、いろいろやり始めたんですよ。品種登録を具体的に進めていったのも、その頃です。

地域のみんなも盛り上がって、“あつまみらい”“ゆうしげ”の2品種を登録することになって。ちなみに、「ゆうしげ」はおじいちゃんおばあちゃんの名前から、「あつまみらい」はおふくろのつくったハスカップをたくさんの人に食べに来てほしい、ハスカップで厚真町は日本一を目指したいって想いからつけたネーミングなんです。

農業改良普及所センターにも協力してもらい品種の調査に3年かけて、書類をつくって、申請から1年たった2009年にようやく品種登録ができました。1978年に山口農園でハスカップ栽培を始めてから、実に30年ほどですね。

子どもにも喜んで食べてもらえる商品を

– 「ゆうしげ」と「あつまみらい」は、厚真町のみで育てている地域限定の品種なんですよね。今では、山口農園以外にも90軒近くの農家さんが、この種類を育てていると聞いています。

山口:品種を作って遺伝子の権利を持っている人は、苗木を買ってくれた人に増殖を許可しないのがふつうです。でも僕は農家さんたちに、増殖を許可した。「最初だけ苗木を買ってもらうけど、自分たちで畑いっぱいに増やしてくださいね」って。自分が苗木を売って金儲けする形だと、流行らないし、普及しないと思ったんです。「せっかく儲けられたのにアホだな」っていろんな人から言われました(笑)

この頃から、山口農園は無農薬栽培にもチャレンジしています。お客さんに無農薬を希望する声もあったから、無農薬のハスカップをつくってみたかったんですよ。栽培面積を広げて、貸していた田んぼもハスカップ畑にしちゃえと考えて。おふくろには、「このバカ、もともと田んぼだった土地でなんか育つか」って散々言われましたけど。なにくそーって思いながら、ここまで頑張ってきたって感じです。

– 人からアホだって言われても、自分の大事にしていることをやっていくのは、お母さんとも似ていますよね。ハスカップを盛り上げていくために、商品開発の工夫などもいろいろされたそうですね。

品種登録して、育ててくれる人は増えた。だからこそ食べてくれる人を、もっと増やしたいと思いました。農協青年部時代に、地元の祭りでハスカップ味のかき氷を出してみたんですよ。でもね、「ハスカップ嫌いだー、絶対まずいもん」って、子どもが泣くように逃げていくの。だから、「まずかったらお金返すから食べてみてよ」って渡して。本当に苦戦しましたね。

年配の人はハスカップに馴染みがあるけれど、若い人のハスカップ離れはここまでなんだなあ、と思いました。みんな、「にがい、酸っぱい」って印象を持ってて。で、なんとか子どもに食べてもらいたいなあ、何がいいかなと考えて、クレープを始めたんです。厚真はもともと炭の生産が盛んだったこともあって、竹炭を生地に混ぜた黒いクレープを作った。これが珍しくて結構人気が出ましたね。

– 今は札幌などでも移動販売を行っているそうですね。山口農園でハスカップ栽培を始めて、再来年で40年になろうとしていますが、これから目指していることは何ですか。

僕が農業を始めた頃は、町内の約60軒の農家がハスカップを育てていて、栽培面積も道内で3~4番目でした。でも、品種登録して、新聞なんかにも取り上げられたし、農協や役場も苗木購入を助成して、盛り上げてくれた。うちでも作りたいって農家さんが増えて、今では町内にある400軒の農家さんのうち、99軒がハスカップを育てています。2013年に、栽培面積日本一にもなりました。

でも、まだまだ満足していないんですよね。もっと商品を売っていきたいと思っているし、栽培面積も増やしていきたい。今、厚真町のハスカップ栽培面積は合計28haほどなんですが、開墾して、これを倍くらいにできないかなと考えているところです。山口農園は家族経営のちっちゃい農家だけど、うちがチャレンジしていることで、「あんなことやれるんだな」とか、まわりの若い奴らが元気になっていけばなって。

– お母さんから開拓者精神を受け継ぎ、ハスカップで地域全体が活性していけば…と願っている山口さん。厚真町ローカルベンチャースクールへの参加にも、興味を持っています(ローカルベンチャースクールでは、移住者だけでなく、町在住の方の新規事業なども応援しています)。厚真町内で6次産業化を目指したい方には、心強い先輩となりそうですね。

山口さんの挑戦により、栽培面積日本一となったハスカップは厚真町のふるさと納税の返礼品としてもご利用いただけます。

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取材・構成=田村真菜(tamuramana.com)

文=武藤あずさ

写真=吉川麻子



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