開拓民の心の拠り所。 地域とともに120年の歴史を刻む厚真山正樂寺
2018年3月26日
広大な田園風景が続く厚真町軽舞地区にある寺院、浄土真宗大谷派 厚真山正樂寺。境内にはアカマツ、トドマツ、ナラ類、などの木々がそびえ、桜の名所でもある庭の樹林は町の文化財に指定されています。
正樂寺の歴史は、約120年前の開拓が始まったばかりの軽舞地区で、1軒の説教所が開設されたことに始まります。現在5代目住職を務める金光朋充さんに、正樂寺と軽舞地区が歩んだ歴史についてお話いただきました。
開拓者がなによりも熱望した、説教所
明治29年、北陸地方から北海道に渡ってきた8戸13名の越中開拓団体の入植によって軽舞地区の開拓が始まりました。しかし、開拓は決して易しいものではありませんでした。懸命に山林を開き田畑を開墾するも、慣れない北海道の自然環境の中で稲や野菜は思うように育たず、食糧の確保に苦労する日々を送りました。こうした辛く厳しい生活を送る開拓者たちは、次第に説教所の開設を熱望するようになり、早くも入植の翌年には正樂寺の前身となる野安部説教所が建設されました。
―開拓者達は、なぜ説教所の建設を望んだのでしょうか。
金光:北陸地方は古くから熱心な仏教徒が多い地域で、富山県出身の開拓団の方々は故郷で培った仏教への厚い信仰を絶やさぬように、「何をおいても念仏の道場を」という思いがあったのでしょう。また、厳しい生活の精神的な拠り所・心の糧を求めたのだと思います。開拓者と近郊の住民の総出の奉仕により、15坪の仮坊舎と12坪の庫裏が建てられまして、そこに新潟県から北海道に移り住んでいた金光昇洹が初代住職として入寺しました。
―住民は説教所に「教えを説く場」の他にどんな役割を期待したのでしょうか。
金光:説教所の開設から間もなくして住民からの要望もあり、初代住職は寺子屋教育を始めました。地元の子どもたちを説教所に集めて、文字の読み書きや絵を描くことなどを教えました。これは、後に軽舞小学校の設立運動へとつながっていったと聞いています。
明治36年には「軽舞二十五日講」という組織が結成され、毎月25日に説教所で集会が開かれるようになりました。聞法を目的とした組織でしたが、地域の課題を協議したり互いの苦労をねぎらったりと、相互交流の場としても利用されたようです。
教育・福祉・文化活動の中心としても、広く地域に開かれる寺
正樂寺の境内には、金光さんのお父様にあたる4代目住職が設立した、さくら保育園の園舎があります。さくら保育園は園児数の減少や近隣にこども園が開園したことなどを理由に平成28年3月に53年の歴史に幕を下ろしましたが、多い時で50人を超える園児が通いました。
―さくら保育園はどういった経緯で開園されたのでしょうか。
金光:この辺りの住民はほとんどが農家ですから、農作業が忙しくなる夏場に子どもを預かってくれる施設の開設を希望する声があったそうです。父もお寺に子どもが来てくれることや、幼い頃から仏教に触れることは、意義深いものであると考えたのでしょう。
農繁期の短期保育を目的に季節保育園として昭和38年に開園しました。町内では最初の保育施設で、開園翌年には町立のへき地保育所に移行されました。昭和46年に独立園舎が建設されるまでは、お寺の本堂と渡り廊下で保育が行われていました。
―園児は檀家のお子さんだけではなかったと思いますが、お寺に属していない地域の方とはどういった関りがあったのでしょうか。
金光:さくら保育園では、お遊戯会があると地域の方がたくさん見に来てくれたり、お寺の花まつりには地元の子どもたちが歌を歌いに来てくれたりもしましたね。
また、父は若いころから小中学生に剣道を教えていましたので、もしかすると住職としてよりも剣道の先生として親しみがある方もいるかもしれません。菊づくりも力を入れていて、時間を作っては小学校に出向いて指導していたそうです。説教所時代に行われていた寺子屋教育から数えると、約120年前から正樂寺は地元の教育や文化活動に関わらせていただく機会が多くあったようです。
―地域住民にとって身近なお寺だったんですね。
金光:さくら保育園の場合は町立に移行されてからもお寺での保育が認可されていました。一般的に宗教的背景のある施設を行政が公立で運営することは、なかなか難しいことだと思いますが、後から建設された園舎にもちゃんと仏様がおられるんですよ。
地域にゆかりのある開かれたお寺としてご理解いただいたのではないかと思います。
教員、青年海外協力隊、旅人・・・多彩な経歴をもつ5代目住職
―金光さん自身のお話も聞かせてください。金光さんは長く厚真を離れていたそうですね。
金光:中学まで厚真で育ち、高校進学を機に厚真を離れました。戻って来たのは37歳でしたので約20年間を町外で過ごしました。
お寺の長男なので「仏教の勉強をしなさい」と親から言われており、高校は京都の大谷高校へ進学したのですが、当時は住職になりたいとは思っていませんでした。そのため大学で教員免許を取得して、卒業後は神奈川県立の高校で理科の教員になりました。
その後、一度休職して、以前から興味のあった青年海外協力隊の道に進みました。
―青年海外協力隊としてどんな活動をされましたか。
金光:ネパールで小中学校の理科と数学を教えました。派遣先の村は電気や水道がなく、教材も十分とは言ませんでしたが、子どもたちの学ぶ意欲はとても高かったですね。目をキラキラさせて授業を受けるんです。理科の実験では何をやっても大騒ぎでした。日本の学校とは違う教え甲斐がありましたね。
2年間の任期を終えて帰国し、2年くらい日本で教員をしました。その後、教職を離れました。
―教員をお辞めになったのは、お寺に戻ろうと思ったからでしょうか。
金光:そうですね。やはり、お寺に戻らないといけないな。とは感じていました。ただ、このまま厚真に戻るのも面白くない、という感情の方が強かったので、もう少しやりたいことをやってから、と思いまして。
―何かやりたいことがあったのでしょうか。
金光:世界旅行の旅に出ました。いわゆる放浪の旅です。タイからスタートして、ネパールやインド、バングラディッシュなどのアジア諸国まわり、中米はメキシコからパナマまで縦断したりと、何度か帰国を挟みながら旅をして、合わせると3年くらいかけて世界を周りました。
―世界一周の旅で思い出に残っているエピソードを教えてください。
タイの滞在が長かったのですが、その間にタイの寺に出家して僧院生活を送ったことは貴重な経験になりました。
タイは国民のほとんどが仏教徒で、小さい子どもからお年寄りまで1日に何度も手を合わせるような、生活に深く仏教が根付いている国です。また、タイの仏教は上座部仏教といって、わかりやすく言うと「僧侶になって厳しい修行した者が、悟りを開いて救われる」「徳を積むと来世で幸せになれる」といった教えです。こういった日本とは違う仏教の世界に興味を持ちまして、約5カ月間の修行の日々を過ごしました。
仏教にもたくさんの教えがあるなかで、他の教えを学べたのは貴重な経験でした。実際に出家したからこそ見ることができた世界がたくさんありました。
先人たちから受け継いだ思いを現代に即して伝えていく
―前述の「軽舞二十五日講」のように、現在も住民がお寺に足を運ぶ機会は頻繁にありますか。
金光:厚真の浄土真宗のご門徒は他の地域に比べてとても熱心で、お寺によく足を運んでくださる地域だと感じます。毎月開催する法話会には30人近く集まってくれます。他のお寺に行く機会もありますが、こんなに毎回集まってくれるお寺はそう多くないと思いますよ。年に1回開かれる報恩講では、準備も含めたら3~4日間もの時間を割いて、ずっとお手伝いに来てくださいます。
同朋青壮年会の「さくら会」の皆様は、20年以上前から毎年境内の草刈りや木の伐採といった環境整備をしてくれます。正樂寺のシンボルでもある樹林は初代住職が植樹したものですから樹齢100年以上たっており、危険なほど大きくなってしまった木もありましたが、さくら会の皆様がチェーンソーやトラクターを持ち寄って、毎年数本ずつ何年もかけて伐って下さいました。本当にありがたいですね。
―最近は「寺離れ」という言葉も聞きますが、こうしてお寺に集まってくれることを金光さんはどう感じますか。
金光:こうして人が集まってくれることを嬉しくもあるし、頼もしいとも感じます。同時に心苦しいというか、申し訳ないと思うこともあります。果たして自分は何ができるだろうと考えることもありますが、私にできることというか私がやるべきことは、正樂寺の住職として親鸞聖人の教えをきちんと伝えるという使命を果たすことに尽きると思います。
―正樂寺では時代の変化に伴う課題はありますか。
金光:厚真がお寺に足を運んでくださる地域だとは言え、うちも昔に比べるとやはりその数は減少しています。「どうやったらお寺に来てくれるか」というのは、現代のお寺が抱える大きな課題の一つだと思います。
厚真の場合、過疎化が進んで町外に移られるご門徒も増えています。ここは公共交通機関でお越しいただくことが容易ではないですし、年配の方は特にお寺に来ることが困難になることもあります。そういった背景があり、平成19年からは近隣のお寺と合同で苫小牧市内に出向いて法話会を開いています。
―時代に合わせて試行錯誤が必要なんですね。
金光:正樂寺でもインド音楽やアフリカ音楽の演奏会を開催したことがありまして、普段お寺に来たことのない方もお越し頂きました。ただ、ライブ会場と認識されてしまうことは本望ではないのでなかなか難しいところですけど、こういったイベントもお寺に足を運んでもらうきっかけになればとは思いますね。
―これからの正樂寺は、どんなお寺でありたいと思いますか。
金光:先人たちが築き上げた「教えを広げる場」というお寺の本筋は守りながらも、新たな出会いがあったり、楽しい集まりができる場、色々な求心力を持てる場になればいいですね。
120年の歳月の中で、時には入植者の心の支えとなり、時には教育や福祉の拠点となり地域住民の生活をより豊かなものにしてきた正樂寺。
広い世界を知り、経験豊かで博識な5代目住職によって、お寺という型には納まりながらも保守的ではなく、開放的でさらに親しみやすいお寺になっていくのではないでしょうか。
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写真=吉川麻子