持続可能な漁のためには、採りすぎねえこと。ほっき貝と海を守る漁師の物語

2017年12月21日

厚真町の特産品のひとつ、ほっき貝。水揚げ量ではお隣の苫小牧市に分がありますが、「うちのほっき貝は美味いぞ」と地元から愛されるほっき貝。そのおいしさの秘密は豊かな海と森、それを守り引継いできた漁師たちの取り組みにありました。「海はみんなのもの」と語り、持続可能な漁をするために頑張ってきた厚真の漁師のお話を、澤口伸二さんにお聞きします。

 採りすぎないよう資源量を守りながら、持続可能な漁をする

– 今回お話を伺ったのは鵡川(むかわ)漁業協同組合の澤口伸二さん。漁協の副組合長で、浜厚真の船溜まりを拠点に「拓洋丸(たくようまる)」に乗って漁に繰り出す現役の漁師さんです。まずは厚真のほっき漁について聞きました。

澤口:ほっき貝の漁期は、産卵の時期を避けてほぼ通年。7月にスタートしてだいたい次の年の4月までだな。「噴流式桁網漁(ふんりゅうしきけたあみりょう)」といって、船の上からポンプで海水を送り出し、海底の土をやわらかくして掘り起こしながらマンガンという熊手みたいなのでほっき貝を掻き出すわけだ。れんこんを掘り出すのを見たことある? あの要領だ。

– 噴流式桁網漁は北海道では主流ですか。

澤口:そう、主流だ。場所によっては鉤(かぎ)を使って「手堀ほっき漁」をしている地域もあるけど、ほとんどはこの方法だ。うちでやるようになったのは……、昭和40年代後半から50年代初めくらいじゃないかな。それまではマンガンをそのまま引っ張っていたけど、噴流式に変えたことでスピードが上がり、生産量がどーんと伸びたんだ。

– 現在はどういったルールの下で漁をされているのですか。

澤口:採っていいのは、殻長が9cm以上のもの(北海道の指導では7.5cm以上)。漁獲量の上限は、資源量調査の結果を受けて毎年シーズン前に決める。漁期が終わる3月に調査をして9cm以上のほっき貝の資源量を推測し、そのうちの1割を年間捕獲許容枠として組合員に均等割するわけだ。

今年の場合は1人あたり8トン。計算上は11トン採れるはずなんだけど、採りすぎないために3トン減らして、8トンにした。厚真全体でいうと組合員数は17だから全部で136トンぐらいだな。

– 収益を考えれば少しでも多く採りたいところでしょうけど、調査結果よりもあえて厳しく自分たちで制限しているんですね。

澤口:正確な資源量を把握するのは、この大きな海を相手にするとどうしたって難しい。毎日沖に出ている人間が感覚的に分かることってあるでしょ。調査結果ではこう出ているけど、感覚的にはもうちょっと少ないんじゃないか。そういう肌感覚も大事にしながら皆で相談して、じゃあ8トンにしよう、と。

– 資源を守ろうというみなさんの総意なんですね。ちなみにここ数年の傾向として資源量自体は年々減っていますか? 増えていますか。

澤口:安定している。うちは、結構採れる方なんだ。苫小牧の場合は海岸線32kmに対して資源量2万トン、うちは海岸線4.1kmに資源量4,000トンだから、苫小牧よりも密集していることになる。ほっき貝の水揚げ量日本一は苫小牧だけど、組合員一人あたりの漁獲量日本一はたぶん厚真なんじゃないかな。

– 厚真はほっき貝の漁場として恵まれているということですが、食味の面で特徴はありますか。

澤口:以前、貫田シェフ(貫田桂一さん。北海道らしい食づくり名人。著書に『北の料理人』ほか)がうちに来て、そのときに「ここのほっき貝は身の色が鮮やかで味も濃密」と言ったことがあって、それはどうやら鉄分が多いのが要因らしい、と。鉄分が多いというのは、ほっき貝にとっての誉め言葉なんだな。そういうことを本に書いているんだ。実際、厚真のほっき貝は札幌の市場でも最初に値段が付く。それだけ市場価値が高いってことさ。


– そんな厚真のほっき貝を、地元のみなさんはどうやって食べているんですか。

澤口:そうだな。刺身にしたり、フライにしたり、バター焼き、酢の物。あとはカレーライスだね。ほっき貝はいいダシが出るんだ。おれたちはカレーライスといえば基本はほっき貝だね。

豊かな海を守るために、自分たちができること

– ちなみに厚真のほっき貝がおいしい理由はどんなところにあるのでしょうか。

澤口:ここらは砂地で、黒ぼっき(殻の黒いほっき貝。ほかに茶ぼっきがある)が採れるというのもあるけど、やっぱり一番のポイントは川だな。川から流れ込むプランクトンが豊富だってことだ。この浜には、厚真川、入鹿別(いりしかべつ)川、鵡川の3本が流れ込んでいる。つまり3つの川から栄養がたっぷりと注がれてくるわけだ。

– 豊かな川があるということは、その背景には豊かな森があるということですね。

澤口:そうだと思う。そのことを自分たちも、それ以外の人たちも忘れないように、していかなきゃいけないと思っているんだ。

– 具体的に何か行動されているんでしょうか。

澤口:今から20年以上前だな。厚真と苫小牧と鵡川で、ほたての稚貝をまいて大々的に養殖事業を始めようとしたことがあった。1年目はなんとかうまくいき、この事業も軌道に乗るだろうと思った矢先、2年目の夏に台風崩れの集中豪雨があって濁った水が厚真川から海に流れ込んだんだ。それでほたては全滅さ。

厚真川が大量の土砂を海に流れ込ませた理由としては、上流にある農業用のダムが農閑期にはダム底の泥を流すことや、厚真川自体が河川改修で直線化していること、そもそも森林が荒廃している箇所から土砂が流出している可能性とか、様々な原因が考えられた。その原因の一端となっていそうな場所や組織に行って、担当者を責め立てたところで関係当局はそれを認めない。とはいえ文句ばかり言っていても始まらないから、当時の青年部で決めて山へ行こうとなった。商工会青年部や農協青年部も巻き込んでね。

– その先頭に立ったのが当時青年部の部長だった澤口さんですか。

澤口:そうだな、他にいなかったからな。いろんなところに出向いたけれど、その中で道有林を管理している部局にも行った。厚真川の上流にある厚真ダムの周囲はぐるっと道有林だから、話を聞きに行ったわけだ。そりゃ道有林が全部悪いって訳では無いんだけど、広い道有林の中には木が少ないとこだってある。そういう場所ってのを減らしていくことが、森林にもダムや川にも、ひいては海にも良いんじゃないかと思ったんだ。だから、「俺たちに木を植えさせてくれ」ってお願いしたの。まあ、色々あったけど最終的には「ウン」と言ってもらって道有林に植樹をすることになった。

それから何回も山に入って北海道の職員の林業普及員の人やなんかに頼んで木の調査をして……実際に植樹するまでには2年ぐらい掛かったな。1995年の春にトドマツとかサクラを1,000本植えたんだ。それがちゃんと育つまでは5年間毎年、山に入って下草刈りをして。その後はまた違う場所に植樹をしてな。しばらくして町にお願いするようになったんだ。

– 住民運動の礎を築いたわけですね。そこまで情熱を傾けたのはどうしてでしょうか。

澤口:やっぱり山が荒れたら、海も荒れるからな。漁業者にとって海はみんなのものだろ。農家にとっての農地とも、ちょっと意味合いが違うわけだ。自分の畑でどれだけ生産性を上げればいいかというものでもない。漁業者それぞれは一人親方で、その点ではライバルには違いないけれど、海の資源ってのは基本的にみんなのものだ。

– 漁獲量制限というのも、もちろん北海道の指導もあるにはあるでしょうが、先ほどの11トンを8トンにしたように、基本的にはみなさんが自主的に規定を設けて海を守っているわけですね。

澤口:ま、そういうことだな。

東京のレコ屋から田舎の漁師へ。一念ほっき!?のUターン

– ところで澤口さんご自身は漁師として何代目になるのですか。

澤口:4代目だ。もともとは岩手県の二戸で、本家はいまもそこにある。明治の…いつ頃だったか、おれのひいじいさんに当たる澤口仁太郎(にたろう)が先に入植していた兄を頼って、兄弟4人で苫小牧の弁天に入ったんだ。その後、兄弟の中で仁太郎だけが浜厚真に移って、それからここに住み着くことになった。2代目はおれのじいさんで名前は初太郎(はつたろう)、3代目の父さんが光夫(みつお)、そしておれで4代目。

– 澤口さんご自身はいつからこの仕事を。

澤口:30歳ぐらいからだな。

– 学校を出てすぐなるものかと思っていましたが、意外と遅いんですね。

澤口:おれの上に兄貴がいたからな。最初は兄貴が船に乗って、おれは別のことをしていた。だけど兄貴には兄貴のやりたいことがあったんだろうよ。兄貴は漁師をやめて、おれが継ぐことになった。

– それ以前は何を。

澤口:おれか? おれは東京にいた。レコードショップに勤めていたんだ。当時は自分でいうのもなんだけど、なかなかの評論家でさ。特にアメリカ西海岸ロックには強くてね。イーグルス、ドゥービー・ブラザーズ、ジャクソン・ブラウン、ジェイムス・テイラー……。そういう系統を片っ端から聞いてたね。なにせレコード屋だからいつでも好きなときに音楽が聞けるわけ。情報もバンバン入ってくるしさ。だから楽しかったね。

– それじゃあ、厚真へと呼び戻されたときは本意じゃなかったわけですね。

澤口:それが、そんなこともなかった。あっちにいるのに限界も感じていたんだ。毎日、夜遅くまでへとへとになるまで働いてな。だけど、先が見えないのよ。当時はちょうどCDが出始めた頃だった。レコード業界の転換期でもあったわけだ。このまま会社に残っても出世していけるイメージは描けない。だったら自分で店を持つのか。そんなときに田舎から声が掛かった。レコードは全部東京に置いてきたよ。それこそ家の床が抜けるぐらい持っていたけど。いま考えるとちょっともったいなかったかな(笑)

– それで戻って実家を手伝うことになった。

澤口:そう。最初は父さんと一緒に船に乗って。だけど父さんはすぐにおれに舵を持たせた。何も教えないで、「ほらやれ」って感じで。それから自分で仕事を覚えていったんだ。

– そして、青年部の部長に。

澤口:35歳のときだ。それで、38歳でここ(当時・厚真漁業協同組合)の組合長になった。北海道一若い組合長っていうんで新聞屋さんもいっぱい取材に来たぞ(笑)。組合が合併したとき(1998年)の組合長がおれさ。

世襲じゃない漁師を増やしたい。よそ者も歓迎だよ

– これからの厚真の漁業について、どう考えていますか。

澤口:まずは漁師を一人でも二人でも増やすのが一番だな。これまでの漁師は99%が世襲だ。親から譲り受けたものを息子が引き継ぐというのが当たり前というか、それしか道がなかった。まァ、外からはなかなか入りにくい世界ではあったわけだ。

いまここの組合員は17人だけど、あと5人ぐらい増やして22〜23人になればいいと思っている。いまの平均年齢は50代かな。先々のことを考えると、若い人を一人でも増やしたいというのがホンネだね。

– 限られた資源量の中で漁をするわけですから、組合員の数が少ない方が一人あたり捕れる量も増えそうですが。

澤口:そう思うかもしれないけど、誰かがいることですごく張り合いになるんだよ。今日みたいに寒い日に浜さ下がって、自分一人だったら「寒いからやめるべ」ってなるかもしれないけど、みんなで下がって「今日は寒いけどいい凪だ。よしがんばっていくべ」となればよ。「そうだ」って、みんななるべ。みんながいるからできるってこともあるんだ。

– 先ほど99%世襲という話がありましたが、新規参入も可能ですか。

澤口:基本的にはOKだけど、最初は誰かの船に乗ってテコとして働いた方がいいかもな。テコってえのは、見習いのこと。人手が足りない船に見習いとして入って仕事を覚えて、船の親方や周りの漁師から「おまえを漁師として認めてやるぞ」となるのが一番だな。

– 厚真にゆかりのない、「よそもの」でも大丈夫ですか。

澤口:厚真にはそんなにややこしい人もいないからな。入りやすいと思う。それにここは食べていくのには十分な資源量があるから、先々の心配はしなくてもいいぞ。漁業をやりたいんだったら、まずは挑んでほしいね。


東京での生活から一転、故郷で漁師の道を歩むことになった澤口さん。札幌のデパートへの販路を切り拓き、自ら売り子となって消費者に厚真の魚をアピールしたこともありました。まだまだ「顔の見える農業」「顔の見える漁業」なんていう言葉がなかった時代に。

閉鎖的になりがちな漁師の世界に身を置きながら、先を見据えて壁をぶち壊して30年。ひょっとすると、レコ屋時代の東京暮らしで培った“よそもの”感覚と、数千枚のレコードを東京に置いて故郷に戻ってきたという“覚悟”が、澤口さんを突き動かしているのかもしれません。

「おれは、この仕事を天職とは思ったことはないよ。だけどな。たとえばある魚の漁期が終わって、次の日から新しい魚の漁期が始まるとするだろ。そんな日に、気持ちが高ぶって眠れないことがあるんだ。小学生が遠足の前の日に楽しみで眠れないみたいに。本当に、いまでもあんな気持ちになる。血が騒ぐといったらいいのか。これは、狩猟民族の血なのかもな。そういうのは誰でも少しは本能として持っているのかもしれないね。それが生活に直結しているんだ。そういうのがこの仕事にはあるのかもな」。

漁師になってみたい人は、まず澤口さんのもとを訪れてみるといいかもしれません。

豊かな海と森を守り、引き継いできた漁師が持続可能な漁のために捕りすぎないように漁獲量を制限して大切にしてきた北寄貝は厚真町のふるさと納税の返礼品としてもご利用いただけます。

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文=長谷川圭介(KITE)

写真=吉川麻子



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