花火大会未経験で一市民の僕が、北海道最大級の花火大会をつくりあげるまで。
2020年2月26日
「糸川さんにぜひ厚真町で講演をして欲しい」。北海道胆振東部地震の発生から約半年後、厚真町の復興イベントで「モエレ沼芸術花火実行委員会」の実行委員長である糸川一也さんに出会ったとき、厚真町で講演会の企画・運営を担っている「エーゼロ厚真」の花屋雅貴はそう思ったといいます。
札幌市のモエレ沼公園で開催されている「モエレ沼芸術花火」は、2012年に始まり、今や北海道最大級の花火大会になっています。
糸川さんのストーリーには、チャレンジを始めた理由や、それ以上に大切な「あきらめずに続けていく理由」、活動を継続し続けることで少しずつ周囲の理解が広がり応援が増えていった経緯があり、大事な要素がたくさん詰まっていました。
厚真町で開催する講演会では「何かにチャレンジするためのヒント」を、お客さんに持ち帰ってもらいたい。そのためには、実際にチャレンジしている人の話を聞いてもらうのが一番です。そこで糸川さんに講演を依頼し、2019年11月、厚真町で「モエレ沼芸術花火」のヒストリーや熱い思いを語っていただきました。
鎮魂の思いを込めてあげられた日本初の花火
—「芸術花火」とは、国内最高峰の内閣総理大臣賞受賞花火師たちの芸術玉を中心に、全編を通して音楽のリズムや曲調にシンクロするよう綿密にプログラムされた音楽花火です。現在全国各地で行われていますが、最初に始まった芸術花火が「モエレ沼芸術花火」です。それを立ち上げた一人で、「モエレ沼芸術花火実行委員会」の実行委員長として陣頭指揮を執るのが、糸川一也さんです。
糸川:皆さん、こんばんは。今日はお招きいただきありがとうございます。まず、自己紹介をさせていただきます。1967年生まれで、52歳です(2019年11月当時)。北海道の高校を卒業して、東京にある芝浦工業大学という建築の大学に行き、Uターンして就職しました。伊藤組土建株式会社の建築部に所属し、35歳まで現場一筋で働いていました。
北海道で起業したいという思いがあって、35歳で起業しました。今、建築電気工事業の会社と、民間専門除雪業の会社と、介護に特化したベトナム技能実習生の受け入れの会社をやっています。また、ビーチ清掃やタイヤ処理などマレーシアの環境問題に取り組む会社も設立しました。
2018年、厚真で10発だけ花火をあげさせてもらいました。花火のルーツというのは、実は江戸で起きた大飢饉です。疫病が発生して多くの方が亡くなり、八代将軍の徳川吉宗が「悪霊退散と死者の鎮魂の思いを込めて花火をあげよう」と言い、隅田川花火大会が始まりました。この隅田川花火大会が日本で最初の花火大会だと言われています。
では、なぜ僕が花火大会を始めたか。それは、2009年に札幌市で開催される花火大会が一つになってしまったことに僕が危機感を抱いたからなんです。僕には子どもが3人いて、「子どもたちが大きくなったときに札幌を元気なまちにしたい」という気持ちが根底にありました。
そこで2010年のある異業種交流会の飲み会の席で「札幌には200万人人口がいるのに花火大会が一つなんて、寂しいよね、こんな恥ずかしいことあるか。だったら俺たちでやらないか!」と、お酒を飲んだ勢いで言ってしまったんです(笑)。でも、20〜30人が「花火をあげたい!」と手をあげてくれて、「市民の力でやってみよう!」と始まりました。
札幌市の花火大会が衰退した背景には、景気後退による経済的理由と、市民の趣味趣向の変化がありました。僕は、この二つを解決しないと我々の花火大会を継続していくことはできないだろうと思ったんです。
運営する資金については、これが合っているのかどうか今でも葛藤していますが——、花火観覧を有料にしました。さらに協賛金もいただいているのですが、一社から大口でいただくのではなく、最大150万円までの協賛金を出してくださる企業様を数多く募らせていただきました。つまり、たとえ一社の協賛がむずかしくなってもほかが補えます。赤字ではない状態で将来実行委員長を誰かに継いでいただける仕組みを考えていて、若い世代に引き継げるお祭りにしていきたいと思っています。
市民の趣味趣向の変化については、「花火を芸術としてとらえる」という新しいコンセプトを立てました。風物詩としての花火はもちろん素晴らしいですし、僕は今でも観に行っていますが、花火大会の衰退に何か手を打たないと、と考えたんです。そこで重要なファクターが、どこで花火を打ち上げるか。そこで目をつけたのが、市内の北の外れにあるモエレ沼公園でした。
関係機関や地域からの理解を得るまで
モエレ沼公園は、彫刻家のイサム・ノグチ氏が手がけた芸術性あふれる公園でした。公園全体を一つの彫刻作品として、自然とアートが融合しています。彼の「地球をデザインする」という考え方が好きで、どうしても花火をあげたかったというのが一つ。
また、僕は札幌市東区の区民なんですけれども、札幌市内11区の中で、東区は比較的、文化、芸術レベルが低い区なんです。あえてそこから芸術として発信することが、札幌市を変え、北海道を変えていくのに一番手っ取り早い。東区でやるからこそ意味があると思い、(東区にある)モエレ沼公園にこだわりました。
でも、ここからがすごく険しい道のりだったんです。花火って、勝手にあげられるものじゃありません(笑)。関係機関との調整が必要でした。
警察のなかでも、例えば会場については地域課へ交渉しに行かないといけない。外周については交通課、花火については生活安全課。それを道警本部と所轄である東警察署、すべて周って許可をもらわないといけません。公園の持ち主は札幌市で、市長政策室はもちろん、観光局、市民まちづくり局、経済局、開発局の各局長さんからもすべて賛同をいただかなければいけない。
また、モエレ沼公園の近くに丘珠空港があり、管制圏の担当は陸上自衛隊で、統括しているのは東京管制局、航空局だったんです。さらに、花火は火を使うため消防法の許可や、飲食を提供するための保健所の許可——。
「糸川って誰?」「そんなものにお金出す人いないでしょ」「そういうことする人いないでしょ」というところからのスタート。あるところに足を運んだら「モエレ沼公園行ってみろ、『花火禁止』って書いてあっただろ!」って言われたんです。「確かにな」って(笑)。それでも足繁く通い、思いを伝え、親睦会を開いたりして納得していただき、やっと許可をいただいたこともありました。
ニューヨークにある『イサム・ノグチ財団』にも手紙を書きました。ここに許可をいただかなければ開催はむずかしいのですが、届いたお返事に「イサム・ノグチもそういう風に市民と触れ合うことを願った人だった」と。許可をいただけたんです。こういった許可をすべて取って、初めて花火をあげられます。
花火の音や観客の動員もあるので、近隣とのお付き合いも大切です。各連合町内会の町内会長さんに、運営メンバーに入っていただきました。
運営スタッフのほかに、市民でつくりあげるためボランティアの方々も必要です。スタッフ、学生部が一丸となって人員募集に奔走しました。花火の当日に約400名、翌日のゴミ拾いに1000名以上のボランティアの方々が参加しています。その人たちには「なぜ花火をやっているか」「どうして継続していかなければいけないのか」「何が大事か」ということを伝え、意思疎通を図っています。
そうしてやっと、花火大会が開催できます。モエレ沼公園は奥行きがあるので、花火をワイドに展開できます。山があって高低差もあるので、「3D展開の花火」と呼んでいます。一時間弱ノンストップで、音楽と1/30秒刻みのコラボレーションをして花火をあげていく—。そこが特徴だと思っています。2019年は会場に2万6千数百人が観に来られたのですが、花火は会場の外で10倍は見ているというのが定説で、動員数は26万人としています。
開催継続の危機。一番の理解者は我が子だった
— 花火大会は飲み会での発言から始まったんですね。大変なことがあっても、それでも続ける理由って何でしょうか?
糸川:「言ったらやらなきゃいけない」という気質であるとは思います。僕の「この指とまれ」に集まってくれた人がいっぱいいて、仲間がどんどん増えていって、「糸川さん頼りにしてるよ」と言われて、親分肌をくすぐられたという周囲の力もありました。
花火の後、役所の方やお客さんからメールや手紙をいただくんですよ。「今年はこうだった」「来年はこういうところに期待してるよ」といった声をもらうと、やり始めた責任があって、止めることができない。だったら中途半端にやっても仕方ないから、一生懸命やろうと。
あとは家族ですね。初期に大赤字だったことがあり、補填をしなければいけなくて、妻と子ども3人を含めた5人で家族会議をしたことがありました。子どもたちにとって、普段の私の仕事って理解しにくいものがあったと思います。でも、花火をやっているときだけは光って見えていたんでしょうね。そのころ僕は家を建てるための頭金を貯めていたのですが、子どもたちから「だったら僕たちは家をあきらめるから、それを使って補填してくれ」という話になったんです。
「そんな親父を見ていたい、辞めないでほしい」というのが子どもたちの素直な感想だったのかなと。妻は、「あんたやるんでしょう? 言っても聞かないよね」って感じで(笑)。だから僕は一級建築士なのに、今、築50年近い家に住んでいて、自分の家が建てられていない状況です。でも子どもたちから「父ちゃん応援してるよ」というメッセージをもらったと思っています。それが僕の財産かな。
継続が周囲の理解と協力を生んでいった
— 周りの反応が変わってきたのはどの辺からですか?
糸川:2年目で「よくやったね」と言われ、3年目で「来年はもっと大きい花火あげられればいいね」と少しずつ反応が変わっていきました。要は、やり始めると周りが認めてくれる。最初は「お前らバカか」と言われたこともありましたけど、「来年はどうなんだ」「応援してるぞ」「何人サポートを出せばいいんだ」という話をいただけるようになっていきました。
— 今は茅ヶ崎、名古屋、京都、大阪、福岡、宮崎など、「芸術花火」が日本各地に広まっていますね。
糸川:国内の横展開は事業としてやっているのではなく、まちを元気する活動を広めていきたいと思ってやっています。僕たちからは、花火業者やデザイナーの一本化、実行委員会の作り方や花火の打ち上げ方、官公庁との折衝の仕方などをマニュアル化して教え、実行委員会をつくってもらい、事業が軌道に乗るまでの間だけ面倒を見るようにしています。
形を作るのが僕の仕事です。僕みたいな男でも、たかが花火だけれども、アクションを起こすことで結果を残せてきています。60歳までか開催10回目までに継続する仕組みをつくり込んで次の世代に渡したいですね。花火は祭りごと。これから10年、20年と続けていきますので、温かい目で見守っていただけたらと思います。