非日常を乗り越えるために必要だった「非日常」。 厚真町復興イベントを企画した吉住先生の葛藤。

2019年3月19日

漆黒の空を音もなくスルスルと駆け上がった火の玉が、静けさを打ち破るようにパッと爆ぜて光を放ち、しだれながら名残惜しそうに消えゆきました。
1発、また1発。慈しむようにインターバルを空けて尺玉花火が打ち上がるたびに、詰めかけた観客から歓声が上がります。「今日は風もなく、最高のコンディションですよ」。厚真芸術花火の仕掛け人・糸川一也さんが興奮を押し殺した声でそう教えてくれました。
北海道胆振東部地震が発生してからもうすぐ5カ月。厚真町復興イベント「絆〜手と手を繋いで頑張ろう厚真」のラストを飾る12発の花火を見上げる人びとの中に、実行委員長を務めた吉住 彰郎さんの姿がありました。

キーワードは、笑顔と非日常。

2019年1月27日。町の中心部にある総合福祉センターを会場に厚真町復興イベント「絆〜手と手を繋いで頑張ろう厚真」が開催されました。日中は吉本興業の人気芸人によるお笑いステージやアーティストの音楽ライブ、そして夜は打ち上げ花火。飲食ブースも出店し、半日間で町民の数とほぼ同じ5000人が来場しました。

イベントを企画したのは、まちの人から「吉住先生」と慕われる歯科医の吉住彰郎さん。地震で失われた町民の笑顔を取り戻したいと実行委員会を立ち上げ、商工会青年部をはじめ、厚真のまちでともに活動する団体に声をかけて、わずかな準備期間で開催にこぎつけました。

亥年生まれの年男。干支のとおり猪突猛進でイベント開催に突っ走ってきたかと思いきや、開催当日まで眠れない日々を過ごしたといいます。
「このタイミングで“復興”イベントを本当にやっていいんだろうかという迷いはずっと心の片隅にありました。被災地・厚真町とひと言でいっても、被害が比較的軽度な方もいれば、家を失い、身内を亡くされた方もいる。日常を取り戻した人がいる一方で、まだ復興という言葉を口にする心持ちにすらなれない人もいます。同じ町内でも個人差がかなりあるんです。イベント開催に批判的な意見があるのも知っていたし、『先生、大丈夫かい?』と周囲から声をかけられることもありました。それでも結果的にこうして本当に多くの人が集まり、喜んでくれたのだから、『成功』という言葉を使ってもいいのかなと、今は思います」。
自分自身に言い聞かせるように、吉住さんはいいます。

2018年9月6日、午前3時7分。吉住さんは自宅で被災しました。ほどなく停電し、混迷を極める中、ある患者さんから「手伝ってほしい」と連絡が入りました。なんでも本州で防災用品を扱う会社の社長がたまたま防災用調理器具一式を持って室蘭に滞在しており、炊き出しのために駆けつけるというのです。
商工会の理事である吉住さんはすぐに商工会仲間に連絡をとり、無事が確認できたメンバーで食材をかき集めて炊き出しをすることにしました。「とりあえず自分にはできることがある。それが救いでした。もし炊き出しがなかったら、頭ン中がバラバラになっていたと思います。電気がなくて、情報も取れない中だったから、悪いことしか考えられなかったでしょうね。炊き出しの現場にいれば仲間の元気な顔も見ることができました」。
けれども吉住さんには炊き出しテントに張り付いていられない事情がありました。歯科医師として避けられない任務があったからです。
警察からの要請で吉住さんは犠牲者の身元確認作業に協力しました。歯型や治療痕が生前の特徴と一致するかを確認するためです。ほんの数日前、診療に訪れたばかりの患者さんの変わり果てた姿もありました。あまりにも残酷な形で“非日常”を突きつけられ、「ぶっ壊れました」という吉住さん。歯科医師として向き合わなければと自分を奮い立たせても、感情をコントロールすることは不可能でした。
気を紛らわせてくれたのは避難所での炊き出しと往診でした。顔なじみの患者さんの悩みを聞いたり、入れ歯の具合を調整したり。まちの人たちとふれあっている間はザワつく心を抑えることができました。
発災から数日間はこうして過ぎていきました。ところが「それが終わると、私にはできることがなかったんです」。
「重機を動かして家を直せるわけじゃない。道路を修復することもできない。何かしたいけれど、何もできません。無力感ばかりでした。そんなときに札幌の友人から『花火を上げられないかな』と相談を受けました」。
それは、重たい雲に閉ざされていた吉住さんの心に射し込む一筋の光でした。「よし、やろう」。気持ちは固まりました。

吉住さんはすぐに商工会の寺坂会長と観光協会の池川会長に開催を提案し、了解を得ました。実行委員会を立ち上げ、実行委員長には言い出しっぺである吉住さんが就きました。
問題は資金でした。まちの予算でも、復興のために集まった義援金でもなく、資金は自分たちで調達したい。実行委員会は北海道に補助金を申請して開催費用の一部を確保し、残りは協賛金を募ることにしました。「今回ばかりはかっこ悪いけど、出身大学の同窓会を通じて全道の歯科医師仲間にも協力をお願いしました」。吉住さんの呼びかけに、すぐに北海道中から善意の資金が集まりました。

預かった資金でどんなイベントにするか。吉住さんの答えは明確でした。
「みんなに笑顔になってほしい。ただ、それだけです。そのためには学芸会レベルじゃダメ。やるからには、腹の底から笑える本物のお笑いじゃないと。とにかく、人口5000人弱のこのまちではありえないようなコトを仕掛けたかった。震災という悪い意味での非日常が起きてしまったのだから、その逆でみんなにはありえないほどの非日常を楽しんでほしい。こんなにもたくさんの芸能人が来て、おいしいものを食べて、お酒を飲んで、最後に花火が打ち上がる。震災以降、集うことがなかなかできなかったから、みんなで集まって騒ぐ日にしたかったんです。キーワードは笑顔と非日常。この2つだけです」。
開催日の1月27日を厚真町にとっての非日常にしよう。吉住さんたちの壮大なプロジェクトが動き出しました。
時を同じくして、実行委員会のメンバーでもある商工会青年部の金谷泰央部長のもとに一本の連絡が入ります。モエレ沼芸術花火実行委員会からでした。

花火は鎮魂のメッセージ。

モエレ沼芸術花火は、札幌市のモエレ沼公園で年に一度開催される花火イベントです。行政や大手企業の主催ではなく、市民手作りの花火大会として2012年に産声を上げました。来場者数は初年度の9500人から右肩上がりで数字を伸ばし、2万4000人を集めるイベントに成長。「アートとしての花火」をコンセプトに掲げ、高度な技術と音楽の融合により、芸術の域に押し上げた花火で観客を魅了します。
2018年のモエレ沼芸術花火は3万人の観客を集めて9月8日に実施されるハズでした。しかし開催日の2日前に胆振東部地震が発生し、中止を余儀なくされました。

「打ち上げられなかった尺玉花火を被災地で上げることはできないだろうか」。
モエレ沼芸術花火実行委員会の糸川一也実行委員長は、そのアイデアを現実のものとするため、実行委員の中田源さんと一緒に現地を視察します。当初想定していたのは安平町・厚真町・むかわ町での3町同時打ち上げでした。しかし、馬産地での打ち上げは難しいことが分かり、3町同時打ち上げを断念。3町の真ん中であり、震源地の厚真町で打ち上げることにしました。そこで商工会青年部でつながりのある金谷さんへ、花火の打ち上げを打診したのです。

モエレ沼芸術花火実行委員会からの情報は金谷さんからすぐに吉住さんへ伝えられました。吉住さんにとってはこれぞまさに渡りに舟。もともと「花火を打ち上げたい」というアイデアからスタートしたイベントです。それが、モエレ沼芸術花火という「本物の花火」を町民に見せることができる。イベントのエンディングを飾るのに、これ以上ふさわしいプログラムはありません。パズルの最後のピースがハマった瞬間でした。

それにしても、なぜ糸川さんは被災地での打ち上げを望んだのでしょうか。
「実はですね。花火には鎮魂の意味があるんです。日本最古の花火大会である隅田川花火大会が始まったのは第8代将軍徳川吉宗の時代。このとき大飢饉が起こり、亡くなった人びとの魂を鎮めるために花火を上げたと伝えられます。震災があったから花火大会がなくなるというのは、本当はおかしな話。震災のときこそ鎮魂の花火を上げなければならないんです。そして花火には、ひとを笑顔にする力があります。花火を上げて被災地のみんなに笑顔になってもらおう。そう思って被災地での打ち上げを決めました。
打ち上げるのは花火の中でも最も美しいといわれる尺玉花火です。花火玉の大きさが1尺、直径およそ30センチ。打ち上げたときの半径は300数メートルに達します。モエレ沼芸術花火の場合は複数の玉を同時に連続して打ち上げますが、今回は12発の花火を1発ずつ、時間をかけて打ち上げます。花火玉が発射されてから、ドーンと割れて消えるまでがおよそ6秒間。派手に打ち上げられる花火もいいですが、1発1発、余韻までしっかりと味わうのもまたオツなものです」。

「ところで、花火大会には実行委員だけの楽しみがあるんです。なんだか分かりますか?」そういたずらっぽく笑う糸川さん。
「花火が上がっている間、ぼくらは花火に背を向けて観客席を見るんです。みんな喜んでくれているかな。プログラムのどこでみんなが笑顔になるのかなって。それをワクワクしながら見るのが、最大の楽しみなんですよ」。

やってよかったのかな。喜んでもらえたのなら。

復興イベントのエンディングとしてモエレ沼芸術花火提供の「厚真芸術花火」を行うことが決まり、イベントの枠組みはほぼ固まりました。吉本興業をはじめタレントとの調整も進み、資金面もクリア。イベント当日までの時間は限られていましたが、実行委員会はチームワークで開催に向けて着実に準備を進めていきました。
その一方で、吉住さんの胸の内では不安の芽が膨らむばかりでした。「お客さんが全然来なかったらどうしよう?」「逆にお客さんが来すぎて、復興の妨げになるようなトラブルが起きたら?」「吹雪いたら?」「強風で花火が上がらなかったら?」。考えれば考えるほど、悪いイメージが頭をよぎります。イベント開催そのものに批判的な考え方の人もいます。「これで失敗したら、何を言われるかわからんなァ…」。
復興イベントの開催を数日後に控えた新年会でのこと。宮坂尚市朗町長が吉住さんの顔を見つけて声をかけました。「一生懸命準備したんだから、それでいいでしょう。集まりすぎて渋滞になったり、多少のトラブルが起こったとしても、それはしょうがないことです」。
吉住さんは、その一言で「だいぶラクになった」と振り返ります。

迎えた1月27日。実行委員の祈りが通じたのか、抜けるような青空の下、厚真町復興イベントは行われました。放射冷却で日中でも零度を下回る寒さの中、震災後に炊き出しを行った総合福祉センター前の会場にはたくさんの町民がつめかけ、どの飲食ブースにも長蛇の列ができました。熱々のうどんを冷ますために息を吹きかける人、震えながらビールを飲む人、ただただおしゃべりに夢中な人。みんな、笑顔でした。

「厚真の人がこんなにもここに集まるなんて、自分も初めて見る光景です。中には、家が崩れてしまった人や、大切な家族を失ってしまった人の姿もありました。ねぎらいの言葉もたくさんいただきました。みんなに喜んでもらえたのだとしたら、やってよかったのかな」。

午後7時。西の空に1発目の尺玉花火が上がりました。
ドーンと重低音を響かせ、澄んだ冬空に色とりどりの光のつぶてが広がっていきます。均整のとれた巨大な球が、幻想的に浮かんでは消えていきました。
吉住さんは12発の花火をどんな思いで見つめていたのでしょうか。
「1発目が上がった瞬間に『あぁ、オレの仕事は終わったなぁ』って。正直ね。あの瞬間は花火を鑑賞する余裕も、感動する余裕もなかった。無に近かったんじゃないかな。ただ、数日たってからその日の花火の動画をネットで観たときに、ボロボロ泣きました」。
吉住さんはそう言って、恥ずかしそうに笑いました。
「来年もやりますか?」。取材の最後にそう聞くと、
「一発勝負。花火と一緒でドーンと開いて終わり。それがいいかな」。

文=長谷川圭介
撮影=エーゼロ厚真

写真提供=厚真町、モエレ沼芸術花火実行委員会



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